「人に好かれる法百ケ条」第五十一条を
お送りします。

 第五十一条 決して反対しない

 誰のいうことも決して反対しない。一応はとにかく賛成してきく。大体その場でどうにか決めなくてはならぬ話などというものは、そのうち一つもありはしない。人間はどうでもいいようなことをしゃべっているのが、楽しみなのだ。多くの人の楽しみを、楽しませてくれる人でなくてはならない。しかし、大切な急所だけは、ぴりっととどめをさしておく。

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 「物事にたいして腹を立てるのは無益なことだ。なぜなら物事のほうではそんなことにおかまいなしなのだから」

 とローマ皇帝で哲人のマルクス・アウレーリウスは訓えています。
即ち、自分でコントロールできないことに怒っても仕方のないことです。そんなことは静観して見過ごすことがいい処世術でしょう。
 何かを決めるとき、どんなことにも一家言あって、あたかも思想のあるかの如く言動し、自分の意志を決める人がいます。また、何でもいいですよ、と言って長いものには巻かれろ式、端から見て、自分の意志はあるのかと思うほど意見を言わない人もいましょう。もちろんその中間に人が大半でしょう。どちらがいいかは一言では言えませんが、これはという場面以外は何で
もOKする人の方が包容力があるように思えます。

 あまりこまごましたことまで一々意見を通そうという人は、結局神経質かあるいは小心な厄介者かも知れません。
 新渡戸稲造も「世の中のことは判然たる意志を持つ必要のないことが多い。換言すればどちらでもよいことが多い。朝起きて夜練るまで、自分のなすこと、接することを一々数えたてれば、自分が頓着しなくとも善いことが多くありはせぬか。食事でも、マグロでもさばでもどっちでもいいことだ。相手には重大でも自分には何の関係もないことがありはせぬか」と分かりやすく例をあげ、「世を譲って渡れ」と指導してくれます。

 何か決める必要がある時には、この箴言を思い出すといいでしょう。何でも賛成の立場に居ることは考える時間ができて、思いの他、客観的にものが見えるようになり、他の人の心理状態に探りを入れたり、結構楽しめるものです。もちろん、譲って世を渡れと説いても、事によっては一歩も曲げられないこともあります。その辺のコツが解りだすと、柳のようなしなやかさと強さを兼ね備えることができる人物になるのでしょう。

 そして、再びマルクス・アウレーリウスの次のことばをかみ締めてみます。

 「競技場において或る相手が我々に爪で裂傷を負わせたばかりでなく、頭でひどくぶつかってきた。しかし、我々は抗議を申込みもしなければ気も悪くしないし、その後も我々にたいして悪事をくわだてているなどと疑ったりしない。尤も我々は彼に対して警戒はしているが、それは敵をしてではなく、また彼にたいして疑惑をいだいているわけでもなく、好意を持ちつつ彼を避
けるのである。
 我々は人生の他の部面においても同じように行動すべきである。我々とともに競技をしているとも言うべき人たちにたいして多くのことを大目に見てあげようではないか。なぜなら私の言ったように、人を疑ったり憎んだりせずに避けることは可能なのだから」