「人に好かれる法百ケ条」第四十三条をお送りします。

第四十三条 上手な御世辞

 歯の浮く様な御世辞、的外れの御世辞、みな下手な御世辞だ。上手な御世辞は言って快くきいて楽しくお互いににごりない満足感を味わい合うべきものだ。だから上手な御世辞はなかなかむづかしいものなのである。
 下手な御世辞は言わぬがましである。相手の真価を認める事が出来、これをよろこぶ感情があった時真によい御世辞が言える。
 真によい御世辞を不快に思う人はない。
 よい御世辞を言える人は優れた人である。
 
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「世辞」:あいそのよいことばや応対。
     へつらい。
「諂(へつら)い」:(相手に気に入られ     よう)と機嫌を取る。媚びる。

 知人・友人を初め上司や先輩が、ある快挙を成し遂げた場合に、御世辞の出番があります。基本的には誉めてあげたいという気持ちです。しかし、その感情は複雑で、妬(ねた)みや嫉(そね)みのような、羨む心から発していることも多いでしょう。要は、御世辞がどの心のあり様から発せられたものかによって、媚びにも変わり、諂いにもなります。

 しかし、真の善意からでたユーモアを含むお世辞は、一種の誉め言葉で、心地よく響き聞いていても楽しいものであります。
 人やその人の持物あるいは物に対する誉め方は、その方の性格や思考のすべてが出るといっても過言ではないかもしれません。ぴたっとした率直な表現は相手にも好印象を与えるものですが、凡人にはなかなかそうはいかないものです。

 「率直とは心を開くことである。これはごく少数の人にしか見いだせない。ふつう見られる率直は、他人の信頼を引きつけるための巧妙な隠れ蓑に過ぎない」とラ・ロシュフコーがいうように、自分は相手のことを誉めていると思っていても、本当は自分がそれに取り入ろうとして策を弄していることも多いものです。

 「人は普通、誉められるためにしか誉めない」そうです。また、「謙虚とは、往々にして、他人を服従させるために装う見せかけの服従に過ぎない。それは傲慢の手口の一つで、高ぶるために謙(へりくだ)っているのである」という箴言には、誰でも、少しは身に覚えがありましょう。

 お客さまや上役や先輩とのゴルフにおいて、よく同伴者の言動を注意深く見聞していると面白いことが分かるもの、まさに、御世辞の大群であります。ティショットでは、上役が打ったどんなショットも前に飛べば「ナイスショーット!」と高らかに叫ぶ下っ端もいれば、他の人には聞こえないように見えないように御世辞を囁く老たけた者もいます。善意の気持ちから発した
適切な御世辞は、場を和ませる効果もあります。配慮しているなと分かってもらうことが雰囲気を柔らかにすることもありましょう。
 しかしながら、誉める・叱るは難しいものです。誉める場合には、よくその性格・相手との関係・その場の状況などを勘案し、冷静な誉め言葉を発したいものです。
 ゴルフの場合を例に取ると、まず、「ナイスショット!」と発する時の音程や余韻に留意すること。それにより、印象がまるっきり違うからです。軽い誉め方・本当にそうだという声を落とした言い方・・・いろいろ使い分けることです。さらに、配慮するが行き届く人はその後の補足に工夫を加えることもその一つ。例えば「ご不満でしょうが・・」と付け加えてみましょう。
殆どの人が少しは不満に思っているのですから、自尊心が傷つけられないものです。完璧なショットしていても、そう言われると、「いや、まあ、不満はないよ。最高だった」と素直になれるし、「いやいや、この位でれば十分ですよ」と逆に謙虚になるものです。もう一つの言葉は、実にナイスショットであった場合、「One of the Hon-ichis!」と言われると、たとえ本当
に「ほんいち(本日一番)」であっても、まだたくさんある・・・となり、悪い気はしないものです。
 本条に述べる如く、優れたお世辞屋になりましょう。その時には、相手を慮り、“よく計算”した御世辞をいうべきです。

 但し、その自信がある人ほど、ラ・ロシュフコーが諭すように、「自分は人に好感を与える、という自信は、えてして人を不愉快にする決め手になる」ことをゆめゆめ忘れてはなりません。
 孔子も
「佞人(ねいじん)は殆(あや)うし」

=「内に不正な心を抱いて口先がうまく、媚びへつらう者は、いつか人心を腐蝕して国を危うくするもの」
と戒めています。