口固く 訥弁の人聴き上手 機敏で好かれる明朗な人

 
広報には、弁舌さわやかな人が向いていると思いがちだが、必ずしもそうではない。訥々(とつとつ)でいい。いや訥々がいいのだ。きちんと伝えよく解っていただくことが第一義である。

孔子も「訥(とつ)言(げん)敏(びん)行(こう)」つまり「君子は、言は訥にして行いに敏ならんと欲す」と、能弁である必要はなく、機敏な行動を心がけることを推奨している。

もし、能弁が広報担当として優れているのであれば、漫才師を広報担当にスカウトすればいいのではないかということになるが、そんな話は聞いたことはない。

なぜなのか? 能弁は往々にして「能言鈍行」つまり、言うのはうまいがアクションが遅い人が比較的目立つからであろう。つまり、説明が長く、自分の発言が多く、かと言ってすぐやってくれるわけではないという状態だ。

能弁は雄弁に似るが、饒舌にも似る傾向がある。広報は、しゃべることは仕事の大きな部分を占めているが、能弁家はつい喋り過ぎてしまう。広報にとって、しゃべりすぎは取り返しが効かない。ちょっとした言葉尻に本音が出るものである。

記者は「訊くプロ」であり、「質問のプロ」である。しゃべり過ぎの傾向のある広報人はその思う壺、知られたくないことまで悟られてしまうのである。これでは、広報卓越者は程遠い。

また、能弁屋は、ともすれば相手を言いくるめようとしがちである。
説得に自信があるので、聴く余裕がない。話す時間を与えない。それも、記者にしてみれば、こちらからの質問をはぐらかされる不愉快さが残るので、つい敬遠したくなるものであろう。

一方、訥弁の人は口が遅い。その分「聴き上手」だ。「話させ上手」と言う方が当たっている。相手はどんどん話してくれる。情報が自然と集まることになるという好循環を促す。

そして、何事も積極的で明るくものを考える人は人に好かれる。
広報卓越者は好かれる人だ。

近藤信緒は、その著『人に好かれる法』において「草花が光の方へ、光の方へと枝葉を伸ばすように、人は明るい人へいつ知らず親しみを覚える。その周囲には温かい雰囲気がただよっている。陽気であるだけで人を温め、励ます力を持つ。明るい人には幸運が近づく」と戦後の荒廃期に青少年を励ました。

訥弁でも、明朗で、颯爽とした人は、何においても卓越する人となることができる。

訥弁の人よ、自信をもて!
明朗な人は人に好かれ、卓越者への素養の原点である。もちろん、「能言敏行」の士は卓越者に至近距離となる。
更には、訥弁が演じられる能弁は賢人である。

 幸福を与えるものは朗らかさ以外には  ない。
 朗らかさは無上至高の財宝である。
 われわれはこの財宝の獲得増進を他のど んな努力よりも重く見るべきであろう。
 朗らかさにとって富ほど役に立たぬもの はなく、健康ほど有益なものはない。

(ショウペンハウエル
     『幸福について-人生論』)