このプロジェクトは順調に進み、私は初期の目的を達成する91年の終了まで駐在を希望したが、89年急遽帰国の辞令、広報担当次長として神戸本社に着任、1年半後広報部長の任を命じられた。好きだった広報に再び携われる機会に感謝し、引き続き亀高社長のお膝元で指導を仰げることも有難かった。
そして社長のリーダーシップにより、USスチールとの提携、アルコアとの提携等々の革新的経営戦略が実行に移された時期であった。私はその意に沿って重要発表をすべて担当できたのは幸運であり、ブランドイメージ向上の役に立てたことは喜ばしい思い出だ。
1994年1月、私はデュッセルドルフ事務所長を命じられた。お陰で中東、南半球に次いで3度目の海外駐在が北半球という珍しい経験に慣れてきた1年後にあの阪神大震災が起きたのだ。
その1月17日私は日本からの顧客アテンドでミュンヘンに宿泊していた。早朝6時(日本時間14時)「日本が大変だ。テレビを見よ」と顧客に起こされCNNのスイッチを入れた途端、神戸生田神社倒壊の映像に衝撃を受けた。顧客の了承を得て直ちに600km以上離れたデュッセルドルフまでアウトバーンを時速200kmで戻り、顧客やメディアからの問合せ対応を行った。なぜなら、大被害を被った神戸製鉄所の主力製品が世界の6割を占める弁バネ用線材! ベンツやBMW始め多くの欧州車も神鋼製で走っているのだ。そこで数日後に帰国、納期や今後の供給等の問合せ対応の為検討会議に出席した。(続く)