“もし、亀高さんがおられなければ今の私はない”昨年12月の偲ぶ会にて改めてその意を強くした。そこで、これまでのつながりを顧みながら、天国の師に感謝の気持ちをお伝えしたい。
鉄”との付き合いは入社3年目の1970年大阪厚板販売課に始まるが、73年から4年間は鉄鋼ビル6階の鉄鋼輸出部でホットコイルを担当した。同じフロアに原料部もあり、亀高さんは当時原料部長。将来の神鋼を担う逸材の一人として聞き及んでいた。時に廊下ですれ違った。最初は大きな体躯風貌から何だか怖い感じを抱いていたが、後に、部下に独得のニックネームをつけて周りを笑わせたり、実際にはとても優しい方と分かった。
1977年7月、カタール政府との合弁事業カタール直接還元製鉄所の建設操業にアドミ&セールスアクティングマネジャーとして従事した。翌年4月24日砂漠に忽然と出現した製鉄所の開所式典がアルサニ首長他カタール政府要人の列席の下、快晴だが風が強く砂塵渦巻く中で執り行われた。日本からは、高橋孝吉社長や森泰助専務他幹部の一員として、亀高取締役秘書室長も参列されたことを覚えている。
私は、東龍二セクレタリー兼セールスマネジャーの下で最初のサウジ向け輸出契約書にサインした感動の思い出がある。
79年初め東龍二セクレタリー兼セールスマネージャーより、6月のローテーション人事での帰国が告げられた。私は、出身元の鉄鋼輸出部に戻り線材担当を期待したが、辞令は「秘書室広報担当を命ず」。それが、亀高さんの直属の部下になった時で、次長に熊本昌弘現特別顧問、それに畑徹広報担当課長がおられた。(続く)