自分はいい人だと思っている。あの人はいい人だと言う。本当のところそうであろうか?先ずは自分の胸に手を当てて、無心に問い合わせてみるがいい。


人の心の中にはいつでも悪魔と神様が隣り合わせで住んでいる。大抵の人間がそうだと思って間違いない。自分もそうだ。だからやさしい心で「こんにちは」と言えば神様が現れ、意地の悪い気持ちで「こんにちは」と言えば悪魔が出てくるようなものだ。相手がニコニコしていれば怒りづらく、相手が怒っていればすねてもみたくなる。人間は理屈より感情の方が先だと言うことをよくよく呑み込んでかかるべきだ。


自分は悪いことは絶対にしないと誓っているいい人も、あの人がそんなことはよもやすまい・・・と太鼓判を押されるような立派な人も、一度も悪いことをしようと考えたことがない人はいまい。

例えば、普通の男であれば下心を持たずにうら若き女性を見ることができるであろうか?

同期入社の友人のいち早い昇進を心から喜べる聖人がいるであろうか?

「おめでとう」の言葉の裏には、どんな想いが隠されているか?受け取るその響きにいかに感じることができるであろうか?

どんな誉め言葉にもお世辞の気持ちのないものはないであろう。冷え切った心で暖かい言葉をかかられる位、その言葉を受ける人にとって気持ちの悪いことはない。お上手はかなりの部分は皮肉である。


フランスの侯爵ラ・ロシュフコーは、「謙虚とは、往々にして、他人を服従させるために装う見せかけの服従に過ぎない。それは傲慢の手口の一つで、高ぶるためにへりくだるのである」と喝破している。

断じて媚を売らないと標榜するのも、一種の媚である。人はふつう誉められるためにしか誉めないともいう。


このようなことは、先ず、あるお世辞や賞賛、親切心などの言葉を人に発する時、先ず自分の心に問うてみるとよく判るものだ。

【山見博康】