誰しも小さい頃から、一度はお金の貸借をしたことがあると思います。実際金の貸借も又難しいものです。

まず貸し方です。

下手な貸し方をするとあべこべに急所をひねり上げられて逆に脅かされます。つまり、お金は貸したが最後、借りた方が優位になるからです。貸した方は返して欲しいとなかなか言えなくなり、弱い立場になるのです。金融機関などの場合には、契約書や法律という権力により取り立てることになりますが、個人的な貸し借りの場合にはそうはいきません。友人関係の場合には、いくら親友でもその関係崩壊はたやすいものです。


私も仕事上の友人から頼まれて、少しですが、貸したところなかなか返してくれず、懇願する気持ちになって自分の方がみじめになるものです。訴えるといってもそれほどの金額ではないし、裁判にかかる費用や労力の方が大変です。


ひさし貸して母屋取られるの諺通り。人間と言うものは、先ず何でも自分に得になる様な理屈を考えるものです。そのためにはどんな知恵でも利用するもの。返さない理由を考えるのです。他の事には馬鹿な人間も損得の事になると、俄然知恵がでてくるものです。昨日善人だった人間も損得の前には、何時ひっくり返るか分からないものです。


そこで、友人にお金を貸す時には、あげるつもりで貸すことです。さもなくば、貸さないこと。貸す余裕がないと言ってきっぱり断ることがその人を助けることにもなります。

イスラム教では、「喜捨(きしゃ)」という考えがあります。お金を持つ裕福人は、貧乏人に施す義務があり、貧乏人はその権利があるというものです。もらっても「ありがとう」といわず、逆にもらってくれてありがとうと感謝するのは、祐福な人の方です。

仏教でいう「お布施」です。神社の「お賽銭」や「寄付」行為もその類です。ボランティア活動は労力のお布施と見なすことができます。

このように、「貸すとは差し上げること」と考えると気持ちは豊かです。

さもなければ、貸した相手を憎むようになります。


「憎むとも憎み返すな憎まれて

 憎み憎まれ果てしなければ」(柳澤里恭)

   

また、「貸すとは投資」の場合もあります。しかし、必ず「リスク」が伴います。「元金保証」の色々な投資案件がありますが、いずれにしても何らかのリスクがあるので、これも「返金無しのリスク」があると覚悟して始めることです。さもなくば止めることが得策になります。「株」や「投資信託」・・・すべて結果に期待せず、差し上げると思うこと。


子供への愛は無償の愛。育児費用、学費・・・すべてプレゼントです。無償の施しというよりも、「親をさせていただいてありがとう」

という気持ちです。その見返りは、成長の喜びです。また老後でお返ししてくれるかも知れないと思えば、「期待しない投資」とも言えましょう。「施し」の気持ちです。


次に借り方:

普通の人は、貸したことはなくとも、借りたことはあります。つまり、月賦で買う時、「クレジットカード」購入は借金です。家のローン、車のローン・・・すべて借金なのです。

 「それ世の中に借銀(かりぎん)の利息程おそろしき物はなし」

(井原西鶴『日本永代蔵』)


大半の人生が、家や車の借金に苦しみつつ、人生を送ると言っても差し支えないでしょう。

起業の時、投資を募るのは純粋な借金ではありません。「株」へ投資は事業成功による配当が見返りですから、失敗倒産しても返す義務はないからです。事業成功への借りということになります。

トヨタ自動車など無借金経営ですが、法人も個人も借りないで済むものであればそれに越したことはありません。


「貴きもまた賤(いやし)きも世の中の

      人にこゝろの中(うち)にこそあれ」(古歌)