周りに「お人よし」と言われる人がいます。いつもにこにこして、都合の悪いようなことやお願いごとを恐る恐る言っても「よしよし、何とかしてあげよう」という態度で接してくれる人です。
実にほっとします。そんな人のお陰で、人生が少しでも明るくなるように思います。中には親身になってお世話しようとする人もいる反面、うわべだけ、言葉だけの人もいることでしょう。そこで、行動力を伴うお人よしは貴重な存在です。自分の経験・人脈を算段して何かの役に立ってあげようという姿勢に溢れ、親身になって叱る人もいます。そのような人はいろんな意味で実力があるだけではなく、包容力があり、心が豊かであることはいうまでもなく、真に与えることが好きな人といえます。
また、自分の趣味での単なる「おせっかい」「世話好き」にならないように自らその限度を計りつつ、相手のその時々の心情を察することを怠らない人情家でもあります。与えるものは、物でなくとも、真に優しい心から思わず発するやさしい一言、思いやりのことばで十分なのです。そこに余りにも小さい自分を発見すれば、さらなる自己研鑽の要を感じ、励みとする一助にもなるのです。
交際していて常に人に何かを与えて行く人と常に人から何かを奪って行く人と二通りある様です。常に与えて行く人は必ずしも金持ちではなく、奪う人必ずしも貧しい人ではありません。与えたくて与えたくてならない性分と言うものもあります。何もしなければ優しいお世辞の1つも言わないと気がすまない。こう言う人は与えることが、わけることが楽しい性分なのです。分けるために、与えるためにこういう人は働く・・・真心を持つ人です。
幸田露伴は、「福には。惜福(せきふく)、分福(ぶんぷく)、植福(しょくふく)がある」(『努力論』)と言います。
まず、「惜福」とは、福を惜しんで使い、節約して使い尽さず他のために残しておくことです。この工夫をする人には幸福が寄って来るそうです。
「分福」とは、自分の福を他人に分けてあげること。一本のお酒も一人で飲むより、二人で飲めばともに楽しく酔うことができるというものです。それは、春風の和らぎや春の日が暖かなようなもので人に無限の懐かしさを感じさせるものです分福するには、老若・地位・豊貧を問わず、ただ自分のもつ何かを少しでも他人に分かち、共に喜ぶことを無上の喜びにするだけです。
その上には「植福」があります。その福が自然と増える、植林のような仕組みにすることです。徳を積み智を積むことによって福を植える人は福を造る人です。まさに、会社経営とは植福でなければなりません。惜福者・分福者のサークルが会社になれば、植福会社になるのです。
人は誰でも“有福(ゆうふく)”です。たとえ“裕福(ゆうふく)”でなくとも、自分の存在そのものが日本のため、また世界のために有福ではありませんか。分福は分福を呼びます。分福・植福が増えると「受福者」が増えます。いつの日か、あちこちで受福の喜びに人知れず涙する人たちが増えることを信じましょう。
ひとりひとり受福者を増やす一員になれば、自分の人生に格別な味わいを醸し出すことになるのです。「授福ばかりは好かれるが、受福ばかりは嫌われる」・・・。
各自、自らの人生を省みて、「受福」が多いか? 「授福」が多いのか? 一人静かに「受授福バランス」を自問自答しましょう。時に「受福」を感じてもいなかった自分を発見し、恥じる気持ちになるものです。人間は社会的動物ですから一人では生きられません。いや、いかなる生物も一人では存在し得ません。種の保存が不可能ですから。
そこで、これまでいかに「受福」が多かろうと、これからは一つでも「授福」を増やしたいものです。この授福数と自分の幸福数は比例するのではないでしょうか?
今日一日、一つでも「受福」を感じ、感謝し、一つでも多く「授福」する一日になりますように。
それが、「植福」へと発展することを願って。 【山見博康】