「言葉」とは、『大辞林』によりますと、人が発する音声のまとまり、感情や思想が音声又は文字で表現されたものとあります。
言(こと)の葉(は)とも言います。
言葉は言霊(ことだま)として、呪いの力を持つものとして、言葉遣いに注意することが大切です。
「沈黙は金、雄弁は銀」と言い、「武士に二言はない」として、沈黙が武士の鏡のように思われていますし。
昔「男は黙ってサッポロビール」が流行ったことがあります。
話術の大家徳川無声によりますと、正しく言えば、
「必要な沈黙は金、必要な雄弁は白金(プラチナ)」「言うべき事を的確に言えない沈黙は石ころ、言うべき事が立派に言える雄弁はダイヤモンド」
でもありましょう。さらに続けて、
「『ハナシは人なり』から『コトバは心の使い』とし、ココロがそのまま言葉になって現れ、ハナシとなって人の心に働きかける。
ですから、良き話をするには、良き心をもっていなければなりません。好いようなことを喋っても、心の醜さはどうしても隠せるものではありません」(『話術』)
と、ぞっとするような事を指摘されているのです。
言葉と言うものは奇妙なものです。まるで手品師のような力を持っています。
或る人にとっては何の意味もない言葉が、或る人には金儲けの糸口になり、また或る人にとっては寒い心を温めるストーブにもなり、逆に、心を傷つける刃物にもなるのです。
同じ事を表現するにしても、色々な人が色々な事を言うものです。私達はこれを勝手に拾ってどう活用しても構わないのです。
或る人がやけのやんぱちで言い捨てた言葉が、時に或る人の生命を救うこともあります。
従って、私達はできるだけ良い好いそして善い言葉を発するように心がけたいものです。とはいっても、
「自分はうまく話せない」とか「あの人のように流調ではないから話すのが億劫だ」と心配する方も多いことでしょう。
実は私がそうでした。
そこで、夢声はこう元気づけてくれるのです。それは:「良い話をするのに雄弁は必要としません。心の良い人は、良い話ができます。幼児の語るハナシがそうです。
舌も廻らず、言葉数も少ないのに思わず大人が聞き耳を立て、何とも言えない好い心地になるだけのある話術を有している。つまり幼児の心は神に近いからです」と。
孔子も
「訥言敏行(とつげんびんこう」(言は訥にして、行いは敏ならんと欲す」
と訓え、ゆめゆめ「能言鈍行(のうげんどんこう)」にならないよう誡めています。
頭のいい人が陥りがちな能弁家の弊害です。
文章を書く時も、一つひとつの言葉を自分ながらよく吟味し、少しでも善い言葉を選びましょう。
なぜなら、
「文体は精神のもつ顔つきである。それは肉体に備わる顔つき以上に、間違えようのない確かなものである」
(ショウペンハウエル『読書について・・・著作と文体』)
私は2002年4月独立し、翌月に最初の著作である『中小・ベンチャー企業のための会社をマスコミに売り込む法』(ダイヤモンド社)を上梓しました。
しかし、初めての執筆で書きあげるまでは苦難苦戦の連続。途中止めようとまで思った程です。
その時、東洋経済新報社取締役出版局長だった友人の大西良雄さん(経済ジャーナリスト、早稲田大学オープンカレッジ講師)のこんな励ましの言葉が、書き続ける弾み車となったのです。それは:
「本は、著者の以上でも以下でもない。かっこつけようと思って書けば、読者はそう読むし、変に卑下したり謙遜したりしても、読者はそれを悟るものだ。従って、著者は、まな板の上の鯉。思った事を思った通り書くことだ!」
これで吹っ切れて、断定的に書くことができたのです。
また読書でも同じように、一冊の本を拾い読みして肝心な二言三言を覚えてこれを活用する人間もいれば、何百冊読んでも読み捨てに終る人もいるのです。その大切な役に立つ言葉を獲得するためには、読書をしても、自分の頭でしっかり読むことが必要なのでしょう。なぜなら、
「読書は、他人にものを考えてもらうことである」(ショウペンハウエル『読書について』)ので、読者は、他人の考えた過程を反復的にたどるに過ぎないのです。
だから、読書したからといって頭が良くなるわけではありません。むしろ、読書好きな人は、読書して知識が増えたと安心する一方、考えなくなる弊害を憂えることです。
多読は愚者を作る。多読し過ぎると自然と考える力を失う。
バネも物を載せて反復すれば次第に弾力を失い、人も乗り物に乗りすぎれば歩く力を失うのと同じなのです。
読書は、脳の食事です。栄養や滋養とするには、思索し咀嚼して身につけなければなりません。
処生の名人とは、読書と思索を使い分け、脳の栄養とし、精神の拡大成長に役に立つ言葉を拾う。
読むことで考えが進み、深まり、考えることで更なる知識を求め、読む目的を見出す。適切な言葉を見出し、役に立つ表現でその活用を図っていく・・・
その交互のバランスを大切にしたいものです。
「心とて人に見すべき色ぞなき
たゞ行(おこない)と言の葉に見ゆ」
「悪くとも善くともいかで言い果てん
折々かはる人のこゝろを」
(新渡戸稲造)
【山見博康】