「人間の能力は使用されることを求めて

 やまず、人間は使用の成果を何らかの

 形で見たがるものである。

 けれどもこの点で最大の満足感が得ら

 れるのは、何かを仕上げること、作る

 ことである」

 (ショウペンハウエル『幸福について』)


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本日執筆に苦難した『広報・PRの基本』

の見本が完成し、対面しました。

著作は我が子の出産と同じです。胎内で

の成長は執筆中の姿、次第に大きく充実

して行き、最後完成前の産みの苦しみを

味わって、遂に出産した時、苦痛苦難から

開放され、尋常ではあり得ない深さと広が

りを実感するものです。


そして、陣痛の苦しみも束の間、母親は

我が子を抱いた時には、今しがたの痛さと

辛さ・苦しみをたちどころに忘れ、また、

産みたいとの意欲が湧き上がるという。

それも、何かを完成した喜びは何ものにも

勝るという証でありましょう。


そういえば75歳でエベレスト登頂に成功

した三浦雄一郎さんも、「涙が出るほど、

厳しくて、辛くて・・・嬉しい」と、厳しければ

厳しいほど、辛ければ辛いほど、その得ら

れる悦びは高く、そして深いことが判ります。

それが、次の80歳の挑戦に意欲を示す

ことになるのです。現在、何かで怪我をされ、

入院中とのことですが、三浦さんにとっては

そんな苦痛など、山の厳しさに比べれば、

比較の次元が違い、病院などは天国だそう

で、看護婦の制止も聞かずにリハビリに精

出す毎日とのことです。


一つの労作が、そのテーマの軽重、内容を

問わず、自分の手で日に日に成長し、やがて

完成するのを見るということからは、直接

的に幸福が得られます。

それは何でもいい。女性であれば、刺繍や

生け花などの趣味でもいい、いや料理でさえ

一つの芸術作品とも言えるものです。主婦は

毎日作品作りをしているのです。


日々のお化粧でさえも、自分の凸凹した、

或いはのっぺりした顔というキャンパスに、

上手に絵をを描くプロセスではないでしょう

か?

その絵に満足した朝には、ニヤッと鏡に映

して外出するし、さもなくば何か浮かぬ日

となりましょう。それも何かを仕上げる作業

でもあります。

私たちは日々の行動にアートを見いだす

べきです。

書類を一つ作るにしても、そこに自分独自

のアート性を見いだしつつ作成すること。

そこに、創造の喜びをその都度味わえる

ことになります。

ショウペンハウエルの訓えるように、

「一つ一つを自らの労作にする」のです。


柳宗悦が「日本は素晴らしい手仕事の国」

(『手仕事の日本』)と言っています。

ところが、機械文明の発達がそれを忘れ

させていると警告しています


機械は世界のものを共通にしてしまう傾き

があります。そして残念なことに、機械は

とにかく利得の為に用いられるので、出来る

品物が粗末になりがちなのです。

そして、最も重要な点は、人間が機械に使

われてしまうためか、”働く人からとかく

悦びを奪ってしまうのです。

どんな仕事も改めて”手仕事化”するという

原点に立ち返ってみましょう。手仕事ならば、

自分の独自独特独創=3独を投入せざる

を得ません。

こうしてものごとを捉えてみる習慣を身に

つけると、色々なことがこれまでとは異なって

見えてくるかも知れません。


「ああ、誠実でなくてはならない。

 生涯の如何なる時でも、いくら自分を

 強いと信じたとて、自分の彫刻のうちに

 甘く出来切らないある部分があるのは

 知っているが、公衆がそれに気付くものか、

 また今度よくやる事にしよう、と考えるよう

 ではなりません。

 公衆がそれを認めなくても、自分自身が

 認める。困難をごまかす習慣がついて来て、

 投げやりな彫刻で満足するようになり、

 やがて、まるで悪い彫刻になって来ます。

 自分の良心と妥協してはいけません。

 何でもないというほどの事でもです。

 後にはこの何でもない事が全体になって

 きます」

                 (ロダン)


 私達は自らの心に、自らに誠実に、

 自らの真の心を持って、その妥協心を

 省みることです。


             【山見博康】