「文体は美しさを思想から得る。

 思想を文体によって

 美しく飾ろうと してはならない。

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元大手新聞社記者で、今は広告代理店に

勤務する友人のAさんが、仕事の打ち合わ

せの後で、新刊書の校正に没頭しているの

を見て、元一流記者だった時代の経験から

こんな話をしてくれました。


「ある原稿を書く時、知っていること、集めた

情報の中から、


 1.100%書く人・・・三流の記者

 2. 30%書く人・・・一流記者

 3. 10%書く人・・・超一流(天才)記者」


と上司から教わり、その後の経験でもそう確

している。野球で言えば、3割打者になれ!

ということ。そこに、イチローや長嶋茂雄など

が、天才打者といわれる所以があります。

つまり“神の領域”です」と。


そう言われてみると、私も著作した経験から

実に同感です。


ある著作テーマに必要な文字は、200-250

の本なら、20万字程度必要です。もちろん、

字の大きさや、図の数など、本の作り方にもよ

りますが・・・。


その数倍の書きたいもの、書くべき(と思って

いるもの)があると良い本になるようです。

そして、1.5倍くらいの分量を書き、それを

削っていくようになると、削るのは苦しいが、

凡才の著作でも、少しは良くなっていくような

実感があるのです。


「建築術でも装飾品を飾りすぎるのを警戒

 するように、言葉の芸術でも、不要な一切

 の美辞句、無用な敷衍(ふえん)、表現

 過剰を警戒し、純粋無垢な文体や話法

 努めなければならない」

 (ショウペンハウエル『読書について』)


の誡めを実行するのです。


私は、ショウペンハウエルを信奉敬愛し、

この『読書について』(岩波文庫460円)を

常に携行、日々学び、指導を受け、天才の

啓示を受ける心の喜びを得ています。


Aさんの話に少し異見を申しました。


「今のお話は全く同感だし、至言ですが、

もう一歩突っ込んで考えますと、今の定義は

知っていること、集めた情報の質や中身が

理想的なものだということを前提にした、

格付けですね。

ところが、実際にはその中身が問題ですね。

▽分量は多いが的外れの情報だったり、

▽本人は集めた集めたと自画自賛して

 いても、もっと優れた人から見れば、その

 精度や質が低かったり

▽情報に思想的な偏りがあったり

▽集める前提が間違っていたり、正確で

 なかったり・・・・

その方がまず問題ではないでしょうか?」


その不十分不完全な情報からの3割しか

書かないとなると、尚更内容の薄い原稿に

なることになります。

本人の充実とは裏腹に、ほとんどの場合

客観的にみると、その傾向が強いのでは?

本人は、思い込みで、またプライドから、

自分は正しい前提で正しい情報を集めて

いると信じてはいるでしょうが。


そこでAさんも同調。

要は、中身。中身です。

何でも先ずは内容の充実を図ることを心す

ること。ともすれば、外見や見栄え、体裁、

繕い・・・に気を遣い過ぎないようにしましょう。


外面は、内面の影絵に過ぎない、のです。



 「自分の内を見よ。

  内にこそ善の泉があり、

  この泉は、

  君がたえず掘り下げさえすれば

  たえず湧き出るであろう」


 (マルクス・アウレーリウス『自省録』)


        【山見博康】


         

  








 

 文体とは所詮、思想の影絵に過ぎない

(ショウペンハウエル『読書について』)