「生命は運動にある」(アリストテレス)


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今朝はこの2日間の運動不足によってだるい感じ

です。昨夜は原稿校正の為、バスケを休んでしま

ったつけが回って来たのでしょう。

アリストテレスがせっかく訓えてくれたにも拘わらず

運動しないとは生きていないことになるのです。

もちろん、昨夜は手や頭などはフル回転したので、

まるっきり運動しなかったわけではありません。


そういえば、心臓は生まれる前から鼓動し始め、

運動をやめた時には生を終えることは自明の理

です。

その意味で、生命は運動なのです。

私の場合は心臓が動く+バスケをやることが、

自分にとっての生きている証。


誰でもそれぞれの生きている証があるはずです。

それはいわゆる生きがいです。


人間何のために生きているのか?

はそれぞれの生きている証の一つでもあります。


パスカルが

「人間は1茎の葦に過ぎない。

 しかしそれは考える葦である」(『瞑想録』)


に記したように、考えることが人間です。

しかし、人間だけが考えていると思ったら、大間違い

で傲慢になってはなりません。

猿は当然、犬もライオンも、鹿も・・・鳥も、魚も、

全て考えているはずです。

それは、種の保存として食物を求めるため、

それに、生殖するために異性を求めるためです。


パスカルのことばも

「人間は“善く”考える葦である」

或いは「“深く”考える葦である」とする方が優位性

を誇れます。


単に考える葦では、動植物を一緒になってしまい

ます。

私は、今“善”という言葉に凝っています。


今日は、もう校正に時間を費やすためにこの辺で

終わります。100P終了今日明日であと100Pです。

時間が惜しい! 


「時間が生命である」

「生命は時間である」


が身に染みて判ります。


時間を大切にしなければ、セネカにも怒られます。

「出しっぱなしの水」と同じような使い方をして

いる自分を恥じなければなりません。




  「われわれは短い時間をもっているのではなく、

   実はその多くを浪費しているのである」


     (セネカ『自省録』)


        【山見博康】