「真に大志(だいし)ある者は、克(よ)く小物(しょうぶつ)を勤め、
真に遠慮有る者は、細事(細事)を忽(ゆるがせ)にせず」
(佐藤一斎『言志四録』)
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昨日急に歯痛に悩まされ、急遽かかりつけの歯医者に行き
ました。以前虫歯を治療し金属をかぶせていた個所が傷んで
いるとのことで、キャップを取り外し中をきれいにし、再度かぶ
せることになりました。普段は優しい女性医師ですが、ひとた
び削る機器を持てば厳しい闘士への変貌します。このしっかり
と装着された金属を力ずくで除去しようと格闘する。かなりの
労働それも神経の疲れる細やかな作業。歯科医は実に高度な
技術者。そう思いつつ口を開けていました。
歯科でいつも思い出すのは、私が社会人になってしばらくして
30代で亡くなった姉のこと。大学入試前、九州歯科大学受験
を勧めたからです。血を見るのが恐い私は受験もしませんでし
たが、歯科医の細事を絶対に忽せにできない様子を見るにつ
け、大雑把極まりない自分には、たとえ歯科大に入学していて
も絶対に卒業できていないと確信を持って言えます。
歯を必死で削る歯医者は、あたかも旋盤工と同じです。旋盤
工は金属を、歯医者は歯及び金属を削る。大工は木を削る。
労働者は身体を削り、経営者は骨身を削る。彫刻家は正に削
るのが仕事。
こうして細かなところまで削り削るのもそれには目的があるか
らです。目的とは、言いかえれば「大義」であり、「大志」であ
りましょう。
どんな仕事にも上下なく、目の前を対象を削ることですが、上
下するのはその志であります。
法隆寺の棟梁西岡常一さん曰く:
「ふつうの大工と宮大工どこが違うといわれましたらな、
ふつうの大工さんは坪なんぼで請け負うて、なんぼ
もうけてと考えるやろ。わたしらは堂や塔を建てるの
が仕事ですな。仕事とは『使える事』と書くんですわな。
塔を建てることに仕えたてまつるということです。もうけ
とは違います。そんだけの違いです。
そやから心に欲があってはならんのです。彫刻する人
が仏さん彫るとき、一刀三礼(らい)といいますわな。
わたしたちは『一打ち三礼』ですな。
『千年もってくれ、千年もってくれ』と打つわけです」
このくらいの気概を抱き、自らの仕事を、1000年つまりミレ
ニアム単位で見てみましょう。何か違って見えるかも知れま
せん。目先の(利)益を得つつ、遠く10年、100年そして
1000年後を見つめつつ仕事をしてみるのです。
昨日、ツタンカーメン王についてのテレビ番組を楽しみました。
カタールとドイツ駐在時代にエジプトには2度訪問。ピラミッドも
王家の谷でツタンカーメン王の墓もつぶさに見たことから懐か
しい想いでした。ピラミッドもミイラも王たちの永遠に生きる魂を
願いましたが、こうして3500年後の私達が楽しんでいるという
ことは、彼らの願いを叶えていることの証です。
私達の日々の小さな仕事も少しでも残る仕事、つまり少しでも
長く役立つ仕事、少しでも多くの人の心を和ませる仕事、少し
でも弱い人々の心を癒し高める仕事・・・を目指しましょう。
その期待に私達のささやかな幸せを感じる時があるのではない
でしょうか? いやそれが凡人の最高の幸せの瞬間かも知れま
せん。1000年とはいわずとも、100年いや10年先でもいい、
自分なりに長く残る仕事を目指すことです。
幸せ感には、貧富の差、地位の差、民族宗教の差、文明の差
・・・何も入るう余地さえありません。
「いつでもどこでも、頼りになるのはおのれ独りだ、
おのれの幸(さち)はおのれが築くのだ、
おのれが見つけるのだ」
(オリヴァー・ゴールド・スミス『旅人行』)
誰でも自分自身にとっていちばんよいもの、
いちばん大事なものは自分自身であり、
いちばんよいこと、いちばん大事なことをしてくれるのも
自分自身です。幸福は自分が感じること。
それには、最高のナルシストになることです。
自分を大切にできない人は、他人を大切にできない人です。
つまり
「幸福はみずから足れりとする人のものである」
(アリストテレス)
さあ、今日も一日、自らの幸せを探し、
眠る前にそれを感じましょう。
【山見博康】