「自愛。――自愛の本性、この人間の『自我』の本性は、自分だけを愛し、自分だけを考えるところにある。だが、人間は何をしようとしているのか? かれは自分の愛している対象が欠陥と悲惨とに満ちているのを、どうすることもできない。


かれは偉大であろうとして、自分が小さいのを見る。幸福であろうとして、自分がみじめなのを見る。完全であろうとして、自分が不完全に満ちているのを見る。


人々の愛と尊敬の対象との対象であろうとして、自分の欠陥が人々の嫌悪と侮蔑とにしか値しないのを見る。かれの感じているこの困惑は、彼らの想像しうる最も不正な、最も罪のある情念を、彼の内に生じさせる。」 (パスカル『瞑想録』) ――


我々は、誰しも「自分が大好き」である。世の中は「自分大好き人間」の集積であり、それが社会を形成している。コミュニケーションの本質を理解するためには、この公理を完全に理解し、納得していなければならない。つまり、コミュニケーションに優れた人とは、この自覚を頭から信じている人に外ならないのである。自我とは徹底的な自尊心である。


パスカルは、自我を自愛と同じ意味においた。自分を愛すればするほど、自愛に満ちた人ほど、自尊心に溢れた人間ほど、自分の欠陥が目につき、自分の劣りを批評して悲惨な心に苛まされるというのである。 人は人と人とのつながりで生きている。人は一人では生きられないのである。

姜尚中(カンサンジュン)は、『悩む力』において、


「自我を保持していくためには、やはり他者とのつながりが必要なのです。相互承認でしか、人は生きられません。相互承認によってしか、自我はありえないのです」


と喝破している。

つまり、自我というものは、他者との「相互承認の産物」であり、承認してもらうためには、自分を他者に対して投げ出す必要がある、というのである。他者と相互に承認しあわない一方的な自我はありえない。そこに、コミュニケーションの真髄がある。


コミュニケーションに悩む人は、まず、相手の自我を100%認めることから始めよう。 他人の自我を認めること・・・それが、日本人として心奥深く抱いている「惻隠の情」を発露する場を与える。そして、我々の心根に「思いやり」の美しさが宿るのである。

 しかしながら、他人に心を開く時、次のことも心すべきことであろう。つまり、素直に心を開くことは、大切なことであるが、その本根本心は、何かの自己都合の意図をもっていることが多いということである。


「率直とは心を開くことである。これはごく少数の人にしか見出せない。ふつう見られる率直は、他人の信頼をひきつけるための巧妙な隠れ蓑に過ぎない」(ラ・ロシュフコー)のだ。


それぞれ、自分のこころに問いかけてみるがいい。ある人に対して率直になれる、素直に自分が出せる、という場合には、つまりは、何らかの下ごころがあるから、心を開く“素振り”=演技をしている自分を感じないか? である。

例えば、上司であれば「“素直に”自分のことを打ち明けて、気にいられるようにし人事考課への好影響を期待する」ような行為であり、顧客であれば、「“率直に”自社の立場を申し述べることによって開かれた会社であるというイメージを与えたい」という行為であろう。


 そのように、自我は、他人の前ではすべてが演技とも言える。だれもわれわれの前では、われわれのいない時に言うようなことは言わない。自分だってそうだ。自我は相互認証であり、コミュニケーションがあって初めて成り立つ一方で、


「人と人との間の結合は、そのような相互欺瞞の上に築かれたものにほかならない。・・・だから、人間は自身においても他人に対しても、偽装と虚偽と偽善とにほかならない」


(パスカル『瞑想録』)のである。


私は、長く務めた神戸製鋼を離れて、広報コンサルタントとして独立したが、当然のことながら、顧客がすぐに増えるわけではなかった。そのために著作のチャンスを生かしたり、セミナー講師をしつつ生業を立ててきたが、そこに、不思議な感覚を抱く時期があった。ある場面では自分は広報関係の指導者でありつつ、別の場面では、自分は顧客への販売員でもあるのだ。顧客不在では生計が不成立に終わるからだ。


そこで、どの販売員と同じく、素直にといいつつどこかに自分を飾る必要が出てくる。誠実に素直にコミュニケーションを・・・が、ある目的をもったものになるのだ。その都度、自分を見つめる嫌な時間を過ごし、自我と向き合わなければならない。


コミュニケーションとは、他人に接しつつ、自分の本心を本意を柔らかく包み隠し、醜さを見せずして巧妙に装い、他人に自分の意図を理解してもらう作業でもあるのだ。 われわれは、パスカルの言葉の重みをかみしめて、他人とのコミュニケーションを図っていくべきである。すると、相手への思いやりを優先することができよう。


人はみな、自分が可愛い。自愛とは自分自身を愛することである。自分を愛するためにすべてのものを愛することなのである。自分を愛することは苦しい。なぜなら、思うようにいくはずはないからだ。


そこで「苦の根源は己、己を思ふ一念なり」(鈴木正三『万民徳用』)でありながら、自らを自らの力で成長させるためには、「自分の我意に対して、それを否定する力のあることを実感するほど、自我形成に役立つものはない」(三島由紀夫『生徒を心服させるだけの腕力を』)のである。  


草も木も己が心を知ればたゞ

 一つに尽くす道の広さよ (新渡戸稲造)