「少量の思想を伝達するために多量の言葉を使用するのは、一般に、凡庸の印と見て間違いない。これに対し、頭脳の卓抜さを示す印は、多量の思想を少量の言葉に収めることである」
(ショウペンハウエル『読書についてー著作と文体』)
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「多量の思想を少量の言葉で収めよ」は、私の座右の言葉である。これまでに8冊の著作を世に出す幸運に恵まれ、その他にも多くの著述機会があるが、常にこの言葉に当てはめて推敲する。もちろん凡庸な頭脳に満足な表現はほど遠いが、少しでもましな表現に向かっての牛歩にも夢は抱ける。
昔から学生歌で「デカンショウ、デカンショウで半年暮らすヨイヨイ、あとのはんとーしゃ寝てくーらす。ヨーイヨーイデッカンショ!」とあり、学生時代コンパでよく歌われたものだが、その最後の「ショウ」がこのショウペンハウエルである。デはデカルト、カンはカントであることは周知であろう。その哲人たちの思想の一端に触れて自分なりに感動し、その訓えに学べることはありがたい。「真似る=学ぶ」である。
この「多量の思想を少量の言葉に収めよ」の適用範囲は広い。例えば、人との会話でも、5分位話を聞いた結果「結局、君は何がいいたいのか?」と尋ねる必要がある人もいれば、同じ内容を1-2分で「ふむふむ、それで?」と、次を促せる人もいる。社内会議でもそういう現象が起きる。顧客へのプレゼンでも、同様の事態が起こるものだ。私も多くの広報関係のセミナー講師を務めるが、この名言に届かぬ歯がゆさを抱きつつも、いつも心していることは有意義である。
更に、すべての物事の進化は「多量のOOを少量のOOに収める」ことに成り立っているといえよう。パソコンは多量の機能を少量のスペースに収めた」のであり、類推すればジェット機も自動車もそうだ。
コンビニは「多量の品物を少量のスペースに収めた」ものであるし、映画は「多量の物語を少量の時間に収め」、多量の炭素を少量の分子にするとダイヤモンドにもなる。そう思えば、あらゆるビジネスは、この名言に重なるのではないか?
人間の卓抜さは「多量の知恵を少量の頭脳に収めた」ものである。そこで、我々は懸命にその知恵を利用するため、考えなければならない。
また、ショウペンハウエルは、「自分の思索でつくった体系は、いわば産みおとされた生きた人間に似ている。その成立の仕方が人間に似ているからである。すなわちそれは外界の刺激をうけてみごもった思索する精神から月満ちて生まれたのである」と言う。つまり、自らの頭脳から取り出してものだけが、自分のものだというのだ。
多量の思想を少量の言葉にするためには、ワインに熟成時間が要るように、悩み抜いて出た言葉には愛着も出るし、自分の言葉というよろこびもあろう。「平凡な言葉で非凡のことを言うこと」つまり、難しいことでも普通の言葉で判り易いことも大切なのである。
人間は一茎の葦に過ぎない。
自然のうちでもっとも弱いものである。
しかし、それは考える葦である。
(パスカル『瞑想録』)