非常のときに身を処するのは、日々の平凡の心掛けによる。春風に誘われ、三日見ず間に開く桜は、風に会うて狼狽して開くのでなく、前年の冬から、厳寒を凌いで蕾(つぼみ)を養うたからである。
昔の武士が戦場に臨み、命がけの勝負をしたのは、平生、木刀をもって木像(でく)を相手として仕合いし、鍛錬した結果である。平素の修養があればこそ、非常の時の覚悟が定まる」(新渡戸稲造『修養』)平らな心、変わらぬ調子、静かな態度
・・・だから好かれる
虫のいどころのたえず変わる人がいる。僅かな時間で、曇ったり晴れたりするむら気な人というものは、よほど身近にいないと調子が合わせられない。このような人は、好かれまい。よい交際や仕事ができない人だ。また、はれものにさわるように気味の悪いからだ。平らな心、いつも同じ調子の人でなくてはならなに。いくら悪気がなくても、向かい合うほうはこれぐらいいやな人はないといってもいい。こんな人は嫌われる。
人間の原点は生まれたての赤ちゃんである。赤ちゃんは、人として生まれてはいるが、まず動物として生まれた。赤ちゃんほど虫のいどころの絶えず変わる人はいまい。哺乳類として母親の体内で10か月栄養の補給を受け、だんだんと人としての形になり、そして出産される。「オギャー」と世に出た瞬間、息を吐く。人生は息を吐くことから開始、息を引き取るところで終了する。生まれてから日々自我の欲求を思いっきり発散する。こんな自由人はいない。母親・父親を始め、やおじいちゃんやおばあちゃんなど、回りは赤ちゃんの一挙手一投足にはらはらどきどき。赤ちゃんは天真爛漫であり、無邪気であり、自由奔放、気儘そのもので、存分に自分を発揮する。
実は、それが動物の本能なのだ。成長のためには、自ら食べて生存することだけを考え、周りのことは何にも考えてはいない。実際にそんな余裕はない。人間以外の「動く物」は、生涯、自らの生存と種の保存を目的とした日々の営みで成り立っている。人間も動物、同じようにしていたのでは、「狼少年」になってしまう。
そこで、人間としての躾が始まる。食べて生きることから、人間としてやって良いこと悪いことを教え、躾を身に付けさせ、善悪の判断能力を付けさせるのだ。社会的動物として、人と人との応対、接し方、相手の年齢や立場における言葉の使い方など、コミュニケーションの方法を教え込む。
そのような強制的な躾・教育によって、人は本来の自由奔放で、勝手な動物から脱却し、喜怒哀楽を状況に応じて統制し、態度や発言を統御し、社会生活を円滑に行うことができるようになるのである。このような経過を辿ってようやく人は、「自分を司る」ことができるようになり、「大人」へと成長する。つまり、大人=社会人は、喜怒哀楽を抑制し、状況に合わせて司ることによって成立するのである。
そこで、虫のいどころの絶えず変わる人というのは、いわば赤ちゃんに近い人である。人間としての躾や教育が適切に行われていないか、本人が身につけなかったものであろう。自らの感情の統制・抑制の程度は、人間という商品の熟成度が高いといえる。人生は人間という商品作りでもあるのだ。
顧客(回りの人)に役立つものが優れた商品価値を持つものとなる。まずもって、周りの人に煙たがられるようでは、商品価値はないものと看做される。遠くの人でも寄って来てくれるようになる人物は、その分価値が高い。
最近、「切れた」という言葉がよく表れる。ネット社会になり、人と人との情感の通じ合う関係から、親子関係においてさえ、無機質な人間同士のやりとりに終始する嫌いがある。
それは、一言でいえば、コミュニケーション力の幼さに起因するものであろう。
喜怒哀楽のある人はいわば人間的であり、感情の抑揚は自然なほど人の心を打つ。表情にあまり表さない人は、極めて優れた人物か、極めて冷酷な人物である。前者は高僧、後者は極悪人と見なせる。
高僧になるべくもない凡人は、喜怒哀楽を適度に表わし、感情の抑揚を適切にあるいは節度をもって“自分を司る”ことができるように、日々努力することである。
むらっ気あり、虫の居所が悪い、起伏が激しい
・・・だから、嫌われる