「われわれが交渉をもち、あるいは交際している人間が、不快な態度ないし腹の立つような態度をとった場合、今後幾度か同じ態度を、しかも輪をかけてとられても我慢する気もちになるくらい大事な人間かどうかを、心に問うてみさえすればよい。それほど大事な人間でなければ、即座に、かつ永久に、この親友と断交しなければならない」
(ショウペンハウエル『幸福について』)
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私たちには子供時代の親友から始まって中学時代の親友、高校時代や大学時代の親友それに会社に入ってからの親友と段階的に付き合う相手が変わっている。会社生活が長くなってくると、学生時代の友達とはもう話が合わなくなっている。そこで、親友といっても「運動部」など何らかの趣味か同かでつながっていなければ難しいものである。同じ運動部に属し、同じ苦しい練習に耐え、同じ合宿生活を楽しみ、そこでは寝食を同じくし、同じ勝敗の浮沈を味わい、勝利への歓喜と敗北への失望を併せ呑み、時に涙し、時に笑い、時に罵倒され、時に激励された。そして異なった運動能力を羨み、異なった試合での活躍度合いに自らの先行きの悲哀を予見し、異なった異性からの持て方に一喜一憂する自分がいた。
しかしながら、どんなことがあろうとも、皆誠実で、純粋であった。そんな運動部の世界においては、社会人になり、齢を重ねて、社会的地位の上下がどうあろうとも、そのような断交しなければならないような付き合いにはなるべくもないと信じきっているものである。ところが、実際に会社に入り、地位が上下したり、収入に大きく差異が現れたり、また自営の苦難に自ら飛び込んだりすると、必ずしも好ましい相手ばかりと付き合うわけにはいかない。むしろこの人とは仕事では付き合わざるを得ないが、それをはずれたら絶対に会いたくない、というような人もいるのである。そんな時相手から、明らかな侮辱を受けたり、侮辱するような態度をされたりすると、どうするのか? 自己の尊厳を傷つけられ、自己の面目を辱められる場合にはどのように対処すべきなのであろうか?
訓えのように、断固決別すべきなのか? 会社生活でも、上司からなんとなく疎んじられていることを感じながら仕事をせざるを得ない日々こそ苦痛である。ずっと軽蔑されていることを感じているが、自分の勤務評価のすべてを握られているので、逆らえない状況だ。そんな時は、嫌われていると判ってはいてもどうすることもできない。つまり、自らの存在の鍵を握られている場合には黙って従わざるを得ないのだ。同じ境遇にある同僚や、まったく利害関係のなうい学生時代の友人などと飲みに行くなり、愚痴をこぼし慰めあうのが関の山である。
そんな時、人間は弱いものだ。自分の能力は認められないことには、それぞれ見方の相違もあるが、好き嫌いはどうしようもない。しかもそれが高じてくれば、軽蔑され、侮辱されているのがわかってくるからだ。そうなるとつらいものがある。そんな状況になってくれば、その上司は「目つきで傷つけ、言葉で傷つけ、仕草でも傷つける」のだ。それがいちいち心に響き、深い傷をつけていくのだ。給与をもらっている身分であるから、耐えることしかないのである。 人は嫌われていることを知りつつ、生殺与奪を抑えられて いるためにその屈辱を耐えることほど、自己の尊厳が傷つけられることはない。
ショウペンハウエルは、今度同じことをされても我慢しなければならないのであれば、何を言っても仕方がないのであるから、小言を言うなり言わぬなりして、水に流すよりほかはない。しかし、それはもう一度やってくれと頼んだも同然であることを覚悟するがよい、というが、まったくそのとおりの展開になる。しかも、その軽蔑の度合いがますますひどくなっていくのである。自分でもいつ堪忍袋が破裂するかわからないほどにもなるのである。その状況でなくなれば、永久に断交することだ。そして、一端断行したら決して仲直りしてはならない。
なぜなら、人間の一切の行動は内面的な原理から出てくるものであるから、同じ状況になれば同じ行動を取るに決まっているというのだ。 そこで、いったん断交したら、もし相手がどんなによりを戻そうとしても、絶対に合意してはならない。人間の本性と言うものは、人に言われるまでもなく本質的には変えることはできないと自分自身を振り返ってもそのように確信するものだ。
我々はいかなる場合においても「自己の尊厳を崩さない」人生を送りたいものだ。 【山見博康】