気取りは、必ず相手に軽蔑の感情を起こさせる。第一に、気取りは

欺瞞であり、それ自体卑劣である。第二に、自分が自分のあり方と

は違ったあり方、自分のあり方よりもましだと思うように見られたいと

思っているからには、その意味で、気取りは自分が自分で自分にく

だす永劫の罪の判決だからである。何かの特質を気取り、それを自

慢するのは、そうした特質をもたないことを白状するようなものだ。

                 (ショウペンハウエル『幸福について』)

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気取ることは、体裁を作る・上品ぶる・見得を張るという意味で、結

局自分にいものを誇ることである。気取った人は一言でいえば、

ぶってる人だ。中には、イヤーな人もいる。ぶりっ子タレントを思い起

こせばいい。気取りたい時もあろうが、気取れば、気取っているとい

うことが、相手にすぐわかるものだと心得ていなければならない。


物を遠まわしにいう人、裏からばかり物を考える人はきらわれる。

少しくらいとどかなくても真直ぐに、ありのままに自然に、きどらない

で物事をやるのは見ていて気持ちのよいものだ。あけっぱなしの人

を好かぬ者はない。あけっぱなしの人の前では、身分も貧富もお互

いに忘れて、平等に交際できからである。


人は、日々ありたい自分、あるべき自分に向かって、身繕いし、装

い、お化粧し、身だしなみを整える。発言の内容をTPOによって変

える。相手の身分・役職・年齢・自分との関係・立場によって敬語

を駆使し、発言内容を微妙に思案しながら態度を決めている。それ

らは、すべて「裸の真の姿」と「装いの偽の姿」との間のどこに位置

させるかによって、自分が考え、自分が決めていることである。


その決め方とその位置が、自分の思想であり、それが自分を築い

ていく。他人からそれがいかに写っているかを常に省みることが大

切であろう。あまりにも度が過ぎれば、真の偽装になり、見透かさ

れて信用を減少させることになる。


セネカも「誰も仮面を長いことかぶっていることはできない。

偽装はやがて自己の本性へ立ち帰る」と警告している。


そんなことより、ありのままで素直な気持ちで常に人と接し、物事

に対処することが大切である。


つまり、「らしく、ぶるな」ということ。


自分らしく素直でいられる人

は、自信のある人である。少し広げて考えると、地位の上下・貧

富の差・民族や宗教の違いまでも超越して、誰にでも変わらず

付き合える人は、しっかりとした自分のアイデンティティをベース

に、自分の思想・志を抱いている人といえよう。【山見博康】