「真砂なす数なき星のその中に吾に向かひて光る星あり」
(正岡子規『竹の里歌』)
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人は誰しも失意に陥る時があります。その原因はさまざまです。
▽愛する人に冷たくされた時
▽信じていた友に裏切られた時
▽上司に仕事のことで叱られた時
▽昇進の期待が破られ、ライバルあるいは自分よりも劣っている
と自分が思っている後輩に先を越された時
▽尊敬している人に軽蔑されるような状況になった時
▽一生懸命善かれと信じてやってきたことが、誤解されて逆に
批難されるようなことになった時
▽
そのような時は酒を飲むか、どこかを歩きまわるか、親しい友人に
打ち明けて憂さを晴らすか、激しく運動して一時的に忘れるか・・・
各人それぞれの方法で自らを慰めようとするものです。しかし、
その位では容易には苦難から脱することは出来そうもありません。
そんな場合に、夜空を見上げると無数の星がすべて自分にそっぽ
を向いていると思うとそう思えるものです。ところが、この歌にある
ように、その中の1本の光だけが自分に向かってきていると信じて
みると実にそのように見えてきます。失意の時には誰もが励まして
くれる必要はありません。最も愛する人が1人でもいいのです。
スイスの哲学者カール・ヒルティは、1897年40年の結婚生活の
後、最愛の妻ヨハンナに先立たれて悲しみの底にいました。
ヒルティがいかに深く妻を愛しかつ尊敬していたかは次の言葉に
すべて表れています。
「もし来世があるなら、無条件に、心から再会したいと思うものは、
ただ自分の妻1人である」と。
誰もこの言葉を妻あるいは夫に言えるようであれば人生は潤いに
満ちたものでありましょう。また、そのように言ってくれる人が1人
いれば、その人生は生き生きとしたものではないでしょうか。
もちろん、より多くの人にいかに影響を与えることができるかによ
って社会的活躍の度合いが分かるといいます。しかし、内面の
充実度はそれとはまた異なるものでありましょう。
古代ギリシャの哲人プロチノスは「すべての存在は、一つである
ことによって存在なのである」としています。この意味は、「世界
はひとつの根源的な存在である『善なるもの一なるもの』の流出
であり、この世のすべてのものはその現れである」そうです。深い
意味は判りませんが、要するに求めているは万物の始めをなすと
ころの善であるということです。
一方西郷隆盛は島流しの辛い日々に「敬天愛人」を心の糧として、
精神の修養に務めました。そして、許されたどころか、その後は
官軍の大将として勝海舟との直談判による「江戸無血開城」に
導き、明治維新成就の大役と見事に果たしたのです。
西郷も獄中天に光る星を心の拠り所にしていたに違いありません。
30年近く前東京から神戸に広報課長として転勤した折、ある先
輩が大阪北の新地にある「無客庵」というアンコウ鍋」を得意とし
た小さな小料理屋を紹介してくれました。主人の福井義之(故人)
は、人や時節を読む才人で、顧客の近未来を予測しては、世渡り
の秘訣をずばりと指摘し、喜ばれていました。私もよく忠告を受け
て助けられた思いが多々あり、今なお感謝しています。4年後、
失意・難事などをいくつか潜り抜けた後、私の豪州転勤に際して、
送られた次の句、「凛々たる孤風 自らを誇らず」は、孤独の時、
孤独を感じる時にはいつも勇気づけてくれるのです。
言葉はことだま、つまり「言霊」とも言います。文字と文字のつな
がりそのものに魂が宿っているのでありましょう。
自分1人と寂しい時には、夜空の星を見上げ、そこに1条の光を
見つけましょう。それが「吾に向かひて光る星」なのです。
【山見博康】