「お愛想とは、真から相手のためを思う心もないのに、
巧みに相手を喜ばせてしまうような付き合い方である」
(テオプラストス、アリストテレスの愛弟子)
人は誉められることが好きである。人に好かれようとす
れば、誉めることが一番だ。
世界的ベストセラー『人を動かす』(デール・カーネギー)
にある「人に好かれる6原則」の1つにも「心からほめる」
とある。誉めることは「相手に重要感を持たせること」
なのである。「すべて人にせられんと思うことは人にも
またそのごとくせよ」とキリストが教えるように、人間は
誰でも周囲の人に認めてもらいたいと願っている。自分の
真価を認めて欲しいのだ。心からの賞賛に飢えている。
それでは、誰でもいつでも「誉めればいい」のであろうか?
それは、ノーだ。テオプラトスがいうように、誉め言葉には、
お愛想の気持ちが入るからである。思うに、誉め言葉=
(お愛想+お世辞+真の誉め言葉+妬み+羨ましさ)で
あろう。自分が人を誉める時の心情を振り返ってみると
いい。自分の心に聞けばすぐ分かる。一点の曇りのない
誉め言葉は、最も愛する人やものに対してのみである。
我が子、恋人、親、敬愛する人、可愛がっている後輩・・・。
それ以外は必ずその他の心情が入っている。
「お世辞は何の見返りも期待せずただ贈るだけの贈り物
にも、利益を求める賄賂になり得る」と優れたお世辞の本
を著したリチャード・ステンゲルが言う。
つまり、何でも誉めればいいと思うのは浅はかな心だ。
問題は何に対してどれ程誉めるか、誉められるかである。
ある程度の美人に「美人ですね」というと喜ぶかも知れな
いが、そのくらいの言葉では飽きたりない美人に向かって
下手に誉めるとプライドを傷つけることになるのだ。
プロに向かって、アマが誉めることを考えたらいい。真の
実力者は誰にどう誉められるかによって、真の喜びを味
合うのである。イチローが容易に喜ばないのがいい例だ。
つまり、目指す次元が異なるのだ。これから、誉める相手
と内容によっていちいち誉め言葉やタイミングなどをよく
考えること。そのように気をつける訓練を積むと、色んな
ことが分かってこよう。それが真の相手への敬意であり、
親切心なのである。その配慮・思いやりがあれば、どん
なに小さなことでも表現や態度を微妙に変えることによ
って誉めて差し上げることだ。
ところが、実際には、立派な人になればなる程、単に誉
められても容易には喜ばない。いや、「喜んでみせる」が
心から喜んでいることとは別のものなのである。
そこで、自分の喜ぶレベルを上げるようにしよう。
誉められた言葉に対する感謝として喜ぶことは大いに
結構だし、その相手の好意に対しての謝意は心から
表すべきである。しかし、自分が自分に対して、心から
喜ぶことのレベルを上げ、それには容易に喜ばないよう
にしよう。それは、「自己の尊厳」に関わることでもある。
【山見博康】