1968年4月九州大学経済学部を卒業後神戸製鋼に入社し、神戸本社の「人事部教育課」に配属され社員教育を担当して2年後、販売部門に行きたいとの希望通り「大阪鉄鋼販売部厚板課に配転になりました。そこでは三菱重工や川崎重工などの造船会社や日立製作所やなどの電気・機械メーカーに厚い鉄板を販売しました。3年後の1973年6月願い叶って鉄鋼輸出部熱延薄板輸出課への辞令が出て、東京配転となりました。英語が好きだったので、神戸製鋼に入社したのも、海外駐在の可能性があることも大きな理由でした。入社以来英会話を勉強し、機会あれば「海外関係の仕事をしたい」と強くアッピール。毎年上司ー人事部に提出する「自己申告書」にも「海外駐在希望。どこでも可」と記載したのがよかったのかも知れません。オイルショック前後の四年間一貫してホットコイルという薄い鉄板の輸出を担当。4人の課長に仕えて、それぞれ大いに勉強できました。揺籃期の薄板輸出において、高朗毅然たる指導者小林達郎部長の力強い統率力には深い感銘を受けました。振り返ってみれば、天地逆転の景気変動の中でも、最後発だった神戸製鋼が新日本製鐵を初めとしたそうそうたる業界内で着実にその地位を築き始めたのは、小林部長の「負けてはならじ」との満々たる闘志と指導力によるところが大きいと改めてリーダーのあり方によって組織の将来は大きく変化することを実感するのです。
私は、上司の指示を実行する際に「何か自分の独創力が付加できないか?」と常に考えるようにしていましたが、それで悩むこともありました。
ある日、課長の指示をいかに遂行すべきかを模索していた時、遠くからそんな姿を見ておられたのか、小林部長がわざわざ歩み寄られ「山見君、命令には幅があるんだぞ!」と諭されたのです。それは「命令は線ではない。どんな命令でも幅があり、その範囲であれば、幅一杯に自分の独創力を発揮すればいい。その幅の広さ・深さは君の裁量次第だ」と解釈できます。それ以来、どんな命令でも、どんな仕事にも自分の独創力が投入できるものだと何らかの工夫を加えるよう努力しています。自分を通ったら自分しかできない仕事へと転化しようとするのです。自分の存在の証をどこかに刻印するのです。その幅をどの位広くとるか?に自分の考え方や実力が出ます。命令の幅を狭く捉えてその幅だけを歩こうとする人と、出来るだけ広く考えてそのどこを歩こうか?」と考える人では遂行の仕方がまるで変わってきます。その幅のどこを歩くかは自分次第なのです。真中を歩こうとする人・端を歩こうとする人がいます。もちろん「命令は命令」ですからそれを外れてはいけません。またその命令の内容によっては時に真中、時に端とを臨機応変にすべきでしょう。そこで、命令を幅で考え、どこに自分の独創を入れるかを常に考えることはとてもいい訓練になります。私などは端を歩きすぎて怒られることが多かったのです。時に端から落っこちていましたから。拡大解釈しすぎてもいけませんが、その位の方が物事を大きく突き動かす弾み車にはなるでしょう。
「命令には幅がある」の名言は、いつまでも心の大きな支えとなっています。仕事への取組みをより広くかつ深く捉えるよう常に促すのです。
小林部長は慶応出身らしくいつもきちっと儀容を保ち(つまりなり・かたちを整え)、物事を直視し、本質を見て、どんな相手にも正論を重んじておられました。
空手を嗜み、眼光鋭く、細身でその動きは軽快で爽やか。言は静かなるも意を含んで重々しく、かつ年齢役職にわけ隔てなく会話し、率直真摯な態度でした。つねに厳しい姿勢なるもその心根は実に優しく、くったくのない笑顔は誰の心も和ませ、典雅なるお人柄を忍ばせた頼りがいのある指導者でした。私の憧れです。アリストテレスからも学んだ「言うべき亊を、言うべき時に、言うべき人に、断固言うべし」はこの小林部長がお手本なのです。
命令といえば、アテネの軍人クセノフォーンが師と仰いだソクラテスの姿を記した追想録にこうあります。ソクラテスから非難されて憎んだ三十執政の1人クリティアースがソクラテスを喚び出して法文を示し「若い者と話してはならぬ」と命令した。そこでソクラテスは「こんな時は話していけないのか?」とか「若いといっても何歳かはっきりして欲しい」などといろんな質問をして問い詰める話がありますが、単に命令されてもその真意を確かめようとする姿勢が結局命令の意図を正すことが分かります。今の私には上司はいませんが何人もの師友や顧客がおられます。その命令を幅広くとらえ、それ以上の価値を与え、個々の励言に沿うように実行し、よりより成果が得られることが理想でしょう。