広島遠征記。「気づく」とは偉大である | No Rice,No Life! 佐藤琢也公式ブログサイト

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企業論、人財論、労働論、マーケティング論、プロモーション論。
時事問題、関心事、個人的な日常など、徒然なるままに綴ります。

迎えた広島遠征の朝。(一昨日のことね)
ふと、「気づくとは偉大なのだよな」と思いつつ、その旨ツィートしていた。ま、ベタだけれどな。




というのは、その前日のミーティングでのこと。

お話した一つは「成熟社会のいま、人々の多くが感じる価値とはどの辺にあるのか?」というテーマだった。

たとえば、洋服に感じる価値。
いまや「単なるもの」としての機能よりも自分の心の何かを満たすため。そうウェイトが勝る人の方が遥かに多いだろう。

彼氏、友達に「可愛いね」と言われたい(思われたい)のかもしれないし、いつもファッションを気にする若さを保ちたいのかもしれない。

または、女性から「お洒落ですね」、「格好いいですね」と言われたい(思われたい)のかもしれない。

はたまた、デキる人に見られたい。仕事でナメられないようにしたい。のかもしれない。自己を表現する一つの方法なのかもしれない。




ふむ。政権交代なのだよね。どんなものにせよ。

旧政権は成長社会がゆえ、ハード(企業、商品、サービス)自体が感じる価値の主役。そして、新政権は成熟社会がゆえ、自身の何かを満たしてくれるソフト(心)が主役という感じで。

とはいえ、「ハードに価値がない」という意ではないのだよ。ハードとソフトという価値の両輪のどちらのウェイトが増しているのかという話であり、生活者(お客さん)視線に合せると、どちらが届きやすいかという話でもあるわけなので。

ん。話が三叉路的になってしまった。戻そう。

その前日のミーティングのことだが、その後、ボクがお客さん役のロープレをすることになった。

何の練習もなしに突如始まったわけだけれど、みなさん、お一人お一人の気づきは確かにトークに組み込まれていた。即興がゆえ不器用さも在ったりしたけれど、そこには確かに。

「気づく」とは偉大なのだよね。人から「ああやれ、こうやれ」と言われるがままならば単なる作業的になりがちなわけで。一方、こうクリエイティブなのだから。

さ、ご依頼頂いている原稿の仕上げとリライトの数々。そして、週明けは静岡遠征が待っている。明日も頑張ろう。全速力で。