夏に人格などあるはずがない。が、もしあるとしたら何と言うのだろう。
「えぇ~い、なんだかなぁ。各々の都合で私を語るんじゃないよ。まったく人間て奴は勝手なもんだ」。
そう阿藤快ばりに半ば呆れ笑い飛ばすのではないかと、ふと妄想にふけっていた次第だ。
というのは、楽しさと近しき語り、と、疎遠な語り、そういう矛盾が同居しているかのように思えるのだ。特段、夏という季節には。
たとえば、「いよいよ梅雨明け!夏の到来だ!」という待ち焦がれたぜ的なノリがある。
さらに、海に、プールに、花火。BBQに、ビアガーデン。祭りに、盆踊りに、夏休み。と、思いっきり満喫しようぜ的なアクティブさも存在する。
「夏が来れば思い出す」と、風情的、風物詩的な扱いもされるし、サザンもTUBEも思い浮かばないような恋詩や物語が巷では展開されたりもする。
そして、welcome的な落ちはこうだ。
「あぁ。もう夏が終わってしまうのねぇ。」と、華やかな宴の後のような名残惜しさ、線香花火が散る間際のような哀愁を帯びた語らいが溢れるわけだ。
いっぽう、それらとは疎遠な語りもある。
チベット高気圧や偏西風が猛暑の原因だとか科学的な説明や分析をもって「夏をいかに乗り切るか」という、いかにも迷惑そうなコピーが踊り、TV番組ではそのレクチャーが積極展開されている。
また、夜な夜な寝苦しいとdisられ、それによる睡眠不足は自律神経の乱れを招くと病魔の如く扱われたり、「暑さをしのげ」、「夏対策」などと何だか敵対視される構図もあったりと。
そして仕舞には、「早く涼しくなれ」的に語られるわけだ。
いや。夏だけではないことは分かっている。冬にしても多くを語られ、歌われるに違いない。春、秋にしても杓子定規にはいかないだろう。それでも波長の違う波同士が激しく、絶えず鉢合せをしているような様は夏が断トツな気がするわけである。そして、人の本質そのものに思えてくる次第である。
余談的だが、この夏の記憶の中に揺曳するものは何だろう。キミが過ぎ去ろうとする頃、考えてみたい。
さ、晩夏を楽しむなり。「暑っついなぁ」と言いつつ。