人を理解する、人を動かすなど、できるのだろうか?主観が習性とも言えるのに。 | No Rice,No Life! 佐藤琢也公式ブログサイト

No Rice,No Life! 佐藤琢也公式ブログサイト

企業論、人財論、労働論、マーケティング論、プロモーション論。
時事問題、関心事、個人的な日常など、徒然なるままに綴ります。

こんばんは。

仕事が終わり、イタリアン的なお店で一杯。
(お酒が弱いので、まさに1パイ)

はじめて「レッドアイ」というモノを飲んでみた。
が、トマトジュースは苦手。

個人的には「やっぱりな」。
そういう味だった。





でも、トマトそのものはオイシカッタのよ。





人は、どこまで他人を理解できるのか?


「容易くはない」と言われる類。
よくよく考えてみれば、いずれも「主観」がそうさせるのではないか。
個人的にはそう思っている。

たとえば「他人の気持ちを理解する」。
そのムズカシさも同じように言えそうだ。

この場合の「主観」とはなんだろうか。

おそらくは、その人の常識であり、正義、倫理観。
経験則や価値観などだろう。

しかし、主観というフィルターを通せば、理解できる幅はかなり限られそうだ。

(SMAP的にいえば「育ってきた環境が違うから~」みたいな)

たとえば、だれかの気持ちを理解しようにも到底できないとき。
「なんて非常識な。身勝手な。」などと、腹が立つこともある。

言い訳や屁理屈にしか聞こえず、「でもさぁ・・・」と、反論めいた口調になることも。

ときには、相手を論破。
いつの間にか、目的がすり替わってみたり。

しかし、そういう気持ちになった、その人なりの事情などがあるワケで。
どんなに理不尽さを感じようが、そのワケは確実に存在する。

ようするに、自前のフィルターで覗き込む限り、それらは見えづらいのだろう。

(自戒を込めて、そう思う)

なぜ、部下は言うことを聞かないのか?


「部下が言うことを聞かない」。
お決まりの上司の悩みがある。

(口ではハイ!とは言うが、実際は行動しない的な)
(クライアント先でも、その類の話題は尽きない)

つまり、人を動かすことのムズカシさを物語っているワケだが、これまた主観というフィルターがもたらすのではないか。

一概には言えないが、その大きな一つだろう。と、個人的には感じている。

なので、「言い続ければ、いつか分かってくれる」という期待は危うい。
というか、かなり妄想的に映る。
(いたずらに言い続けるという意味で)

部下には部下なりの事情や理由があるワケで、上司の主観とは必ずしも一致するはずがないのだから。

コーチングやNLP的なスキル、テクニックは大切だと思う。
管理者向けのマネジメント研修なども必要だとも。

が、「オレって意識高いだろ」的に部下にアプローチするのでは、なんとも心許ない。

いったんは主観をポイっと放り投げ「相手を中心に置いてみる」。
そういった、ある意味で「人並み外れた覚悟と努力」ができるかどうか。

個人的には、本質はシンプルすぎるところ。
そういう根っこにあるような気がしてならない。

(人心掌握がバツグンな方々に接すると、特に思う)

(幹部・管理職向けの研修プログラムもそっち寄りにエッセンスを変えてきたが、相応の手応えはある)

もちろん、個人的にも常に大きなテーマであることは間違いない。


言うは易く行なうは難し


相手を理解する。相手の気持ちになって。
そういう類は美談的だが「言うは易し」。

身内や恋人という、超がつくほど関係が深い相手でさえも、時にはよく分からなかったりするワケで。
最高クラスの難易度といっても、差し支えはないだろう。

そうさせているのは、ニョキニョキと顔を出す主観。
個人的にはそう思えるワケだが、仮にそれを除いてみたとしても、じつは理解には及ばないのかもしれない。

「分かったように言わないでよ」
そう言われてしまうのかもしれない。

う~ん。元もこうもないな。
いや、そういうものかもしれないね。

もしそうだとすれば、その人なりの気持ちの裏側というか、背景。
たとえば、その人にそう言わせている「何か」を見つけ、認め、思いやる。
そうできるだけでも十分ではないかとも思ったりする。


いずれにしても、主観を外して眺めるとは「行うは難し」。
永遠のテーマかもしれないけれど、励むよ。

ではでは。