宇多田ヒカルさんのツィートがワールドカップ初戦を賑わした件。リテラシーとは何ぞや? | No Rice,No Life! 佐藤琢也公式ブログサイト

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時事問題、関心事、個人的な日常など、徒然なるままに綴ります。

こんばんは。

「ブラジル対クロアチア戦」で開幕したワールドカップ。
初戦からさっそく賑わした。
宇多田ヒカルさんのツィートのことだ。

西村主審のPK判定に触れ、こうつぶやいた。

「クロアチアの皆さん、不運な試合でしたが日本人を嫌いにならないで」と。

〈該当ツィート〉

それに対し、多くの声があがった。
「あれは誤審じゃない」。「サッカーを分かっているのか?」。「なぜ謝るワケ?」などと。

さらにそれらへ配慮?したツィートがつづく。

「周りのサッカーファンがみんな誤審だって騒いでたから
鵜呑みにして失礼な冗談を書いてしまった。
西村さんごめんなさいorz」

〈該当ツィート〉



「ツウな人ほど、黙っていられなかったのかも」


リテラシーとは何ぞや


ソーシャル、SNSの性格には「社会と繋がる」がある。

今回のようなツィートへのメンションもリプライもそう。
何かのトピックスに対するコメントもそう。
声をあげて参加している。

たとえ批判や否定、揚げ足取りにしても自身の意思表示に他ならないし、それはアリか?と問われればアリだとは思う。
(節度や思いやり、常識などは必要だと思うが)

また、誰かしらが読んでくれるから「これってさぁ~」となる。

つまり、社会に参加すること、その中に自身の存在を感じられること、それは誰しもにとってある種の喜び、満足といったモノに通じることだと思う。


いっぽう、巷では「ネットリテラシーが大切なんだ」という。
リスク、セキュリティなど、扱い方をシッカリ知ろう、とも。

もちろん、それらは大切だけど、どこか不十分に感じる。
ユーザー自身のソフトという部分で。

これは個々によるところだが、たとえば「もし自分が同じ立場や状況だったら?」

あるトピックスに対して、そう考えてみるのもアリなんじゃ。
そういう議論があってもいいんじゃないか。
個人的にはそう思う。


ちなみに、報道やワイドショー的なTV番組。
解説的なモノはともかく、あるトピックスに対する杓子定規な正論には、大して意味を感じない。

それよりも「もし自分ならこうしただろう」というような「コメンテーターのフィルター」を通した方が、よっぽどリアルでオモシロそうだ。
(したくても、できないのかもしれないが。)


そうそう。
サラリーマン時代のリアル格言のようなものがある。
「立場変われば言うこと変わる」。
これまた、じつに正論だ。

ではでは。
明日はいよいよ日本戦だね。