驚いたことに、作家フランツ・カフカが青年時代にシュタイナーに会って相談していたという事実だ。

 

カフカは、それまでにもシュタイナーの講演を何度も聞いており、その上で個人的に訪問までしているのだ。

 

 

カフカがシュタイナーに問いかけた。

K :「ずっと神智学をなさっていらしたのですか?」

S : 「神智学をめざしながら、しかし、神智学をもっとも恐れている。それは、私に新たな混乱をもたらすだろう。」

K : 「でも、先生、あなたの書かれた『透視の状態』に近い状態を私も体験しました。そういう状態においてわたしは自分の限界ばかりでなく、人間的なもの一般の限界をも感ずるのです。ただ、たぶん透視者に独特のものである恍惚とした平静さだけが、たとえ全部でないにしても、その状態に欠けていたのです。」

 

そこには青年カフカが葛藤する自らの悩みの状態から抜け出す手がかりをシュタイナー博士に求めながら同時にそれを恐れたという、愛憎入り混じった相談を行なっていた。

 

シュタイナーはそうした混乱した若者の相談にも、その都度誠実に対応していたようである。

 

さて、神智学(テオゾフィー)とは何かだが、1875年にウクライナ生まれのブラバツキー夫人によって設立された「神智学協会」が発端で、彼女がチベットの「隠された古文書」を学び、「霊的指導者」の助けを借りて、古来の叡智を集大成し、壮大な宇宙発生論・人類起源論を展開したそうである。

その会員には、文学者のウイリアム・イエイツ、ジェイムズ・ジョイス、ロマン・ロラン、ヘルマン・ヘッセ、画家のワシリー・カンディンスキー、パウル・クレーやトマス・エジソン、インドのマハトマ・ガンジーとネールらがいたそうである。

 

この協会には、科学万能の時代に危機を感じ、古代の叡智を求めようとする知識人の心に、広く染み込む魅力を備えていたということがあったということなのだろう。

 

しかし、好事魔多しで敵対する「心霊研究協会」からイカサマ団体の謗りを受けて多くの賛同者を失ってしまった。

 

そこで、たまたま弱体化したベルリン支部で講演を依頼されたシュタイナーは、当初から神智学協会には不信感を抱いていたが協会員からの高評価に感激する。

以後、多数の講演を行い、会員に向かい自らの学問を神智学と名乗りさえした。しかし、時とともに神智学の影響などなかったと言い放つようになり、自らの野心のため協会を利用していたことが判明してしまう。

 

実際のところ、シュタイナーと神智学は相容れない存在であった。

それは、シュタイナーが「イエス・キリスト」の出来事に、他の何にも変え難い重要性をおいていたということである。

シュタイナーは、東西思想の融合には批判的で、西洋独自の伝統の中から、新たな霊的認識を構築すべきであると主張していた。

 

一方、ブラバツキー夫人は、インドに渡った後、オルコット大佐とともに仏教に改宗して、東洋の伝統的な用語法で、自身の思想を展開していた。そして、あらゆる宗教に同等の真理を見出して寛容と融合を目指したため、シュタイナーとは相容れない思想基盤の上に成り立っていた。

 

さらに、決定的な分裂の元は、ジドウ・クリシュナムルティの存在であった。

1909年、神智学に転向していた牧師リードビーターは、マドラスの海岸で、「その体から巨大な金色のオーラを発している」薄汚れた少年クリシュナムルティを発見する。この少年こそ、来るべき時代の到来を告げる救世主である。そう直感し、少年に特別な教育を施したばかりか、この少年をメシアとする教団「東方の星」を設立する。

 

むろん、シュタイナーが、そうした話を受け入れるはずがない。

1913年、シュタイナーは神智学協会から除名されたため、新たに「人智学協会」を設立することになった。ドイツ神智学協会メンバーのうち、シュタイナーと共に新しい教会に移ったものもいた。

 

 

なお、このクリシュナムルティ(1895~1986)は、人格的に優れた人で、成人して教団教祖となったが、1929年、自らの権威を持って、規制の組織は救いをもたらさないとしてその教団を解散してしまう。そして自らは一人の説教者として生き、世界各地に多くの信者(彼の話に感銘して聞きに来る人たちや多くの著述を読み漁る人たちのことで、私もそのうちの一人だ)を集めることとなった。

 

参考文献:「シュタイナー入門(講談社現代新書」 西平直/著