最澄(767 〜 822年)が遣唐使として中国に赴いた主目的は、天台教学の修得であって、天台のマスター後にたまたま出会った密教は思わぬ拾い物だった。
最澄が帰朝後に報告するため朝廷に参内すると、ちょうど桓武天皇(737〜806)が重い病に臥せっており、宮中では、最澄の持ち帰った祈祷法をともなう密教に注目があつまったため、早速病状回復の祈祷が行なわれた。
↑最澄、何を想うか
日本に密教を広めた弘法大師・空海の最大の願いは、簡単明瞭に「自身が即身成仏すること」にありましたが、一方の伝教大師・最澄はどうかというと「『法華経』に基づくすべての人を救う大乗の教え(円頓戒)を広めるため、比叡山に独自の独立した戒壇(戒律を授ける、いわゆる授戒のための場所のことで、授戒を受けることで出家者が正式な僧尼として認められることになる。)を置くこと」にありました。
そもそも戒壇を設立することが急務となった我が国では、唐から鑑真和上(7世紀~10世紀初頭)を招聘して、754年、東大寺に戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人が授戒を授かるわけだが、これが日本における最初の戒壇である。
それ以来、授戒は奈良の東大寺などで行われていたが、これらは古い小乗の戒律に基づく授戒であった。最澄も東大寺で受戒したが、その後入唐して天台宗の七祖の一人から円教(法華経)の菩薩戒である円頓戒を授かった。帰国後、最澄は、大乗は一乗(*)であり、ならば一乗の戒が必要だとして、東大寺などで行われている授戒を小乗のものと断じ、自らその棄捨を宣言した。
↑鑑真坐像(奈良・唐招提寺)
(*)一つの乗り物のことで、乗とは、教えを覚りへ向かわせる乗り物に譬えたもの。仏の真実の教えは一つであり、すべての衆生が平等に仏になれると説く教え。これに対して、声聞・縁覚・菩薩のそれぞれに、固有な三種の覚りへの道があるとするのが三乗である。天台宗や華厳宗では一乗が真実であり三乗は方便(真実の教えに導くために仮に設けた教え)であると主張した。
そして、一乗の戒壇設立の許可を朝廷に請うも、南都の僧綱の強い反発にあい、その設立を見ずして最澄がこの世を去った直後の822年、朝廷は比叡山に大乗戒壇を置くことを許可した。
いずれにしろ比叡山・延暦寺に大乗戒壇ができたことで、日本天台宗は独自の僧侶を正式に育てる基礎を固めることができた。おかげで、法然・親鸞・道元・栄西・日蓮といった錚々たる開祖たちが世にでることもできたわけだが、当時、中国の仏教界は延暦寺の大乗戒壇を、戒壇としては認めておらず、ここで受戒した僧は、道元の例にもあるように中国では僧侶として認められなかった(別に仏教が滅びゆく中国で認められなくても問題ないさー)。
さらに、最澄は、大乗「法華経」でなければ成仏は覚束ないとして比叡山の得度者は初心の菩薩僧であるとして奈良仏教のような小乗の教えに染まらず一向大乗の教えで修行をすべきだとした。これに対し、僧侶を統括する南都諸宗の代表僧侶からなる既得権を守る組織の「僧綱」は得度・受戒をこれまでにない大乗菩薩戒で行うことは仏教制度を逸脱するものであり認められないとした。これに対して、最澄は819年、大乗と小乗とでは、寺も、僧の上座とあおぐ尊も、もちろん戒律も戒律の授け方も全く違うと反論した。
ときの嵯峨天皇(786〜842、空海・橘逸勢の三筆の一人で華道にも明るい)はまったく困ってしまい放置した(政治には疎かった)のだ。
また、官立寺院(官寺)ではない延暦寺の山内に戒壇設置を認められたことに、東大寺をはじめとする南都(奈良)の寺院の反発を抱き、両者の対立の原因の一つとなった。
その後、当の比叡山では、小乗を認めない方針の一向大乗の寺域から先を案じて奈良仏教の法相宗に鞍替えしていく僧があとをたたなかったという。
天台宗と南都(奈良の仏教勢力)との争いで特筆すべきなのが、「三一権実諍論」である。
三一権実諍論(「三一」とは、三乗と一乗の教えのこと)は、平安時代初期の817年前後から821年頃にかけて行われた、法相宗の僧侶・徳一(生没年不明)と日本天台宗の祖・最澄との間で行われた仏教宗論のことである。なお、徳一とは、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧で、三一権実諍論や、空海に対して密教についての疑義を提示したことなどで知られる。
↑徳一上人坐像(筑波山 大御堂)
論争の内容は難解で、天台宗の根本経典である『法華経』では、一切衆生の悉皆成仏(どのような人も最終的には仏果(悟り)を得られる)を説く「一乗説」に立ち、法相宗では、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の区別を重んじ、それぞれ悟りの境地が違うとする「三乗説」を説いてるそうだ。
徳一は、三乗の考えこそ真実であると主張し、法華経の正統性を問うたわけで、論争は著作の応酬という形式で行われた。なお、両者の論争はあまり噛み合っておらず、議論そのものも詳細というよりは瑣末的であり、時折相手側への罵倒に近い表現も見られた。
最澄は、しばしば非常に激烈な表現を用いて論敵を侮辱しており、徳一のことを「麁食者(粗末な食べ方をする者、半可通のこと)」「謗法者(賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(南に行こうとして牛車・馬車の轅を北に向ける者。方角もわきまえぬ者)」などの蔑称で呼び、本名の徳一で呼ぶことは一切なかったという。
一方の徳一は、法華教説や最澄に対して「凡人臆説」「顛狂人」「愚夫」などと悪し様に罵倒しているが両者の口喧嘩は誠にみっともない限りで、特に天台宗開祖ともあろう最澄の品格を疑う。どちらかといえば秀才肌で生真面目者の最澄が、これほどまでに攻撃的な姿勢で激昂して論争に臨んだのには、いくつかの原因が考えられる。
まず、天台宗に密教の要素を取り入れ、新たな宗派としての地位を高めようとしていた最澄にとって、空海との訣別により孤立感が深まったことで、南都諸宗に対してより敵対的な姿勢に駆り立てられたともいわれ、また、大乗戒壇の設立など、天台宗を確立して南都仏教に対抗しようとする最澄にとって、法相宗の理論家である徳一を説き伏せることは、天台宗の南都六宗への優位を示すことにも繋がるためだとも考えられる。当時の仏教界において、法相宗は主流である南都六宗の中心であった。
なお、徳一は天台宗のみならず密教に対しても問題視していたと見られ、真言宗の空海に対しても『真言宗未決文』で批判しているが、空海は論争などせず、批判を自分へのアドバイスへと昇華して即身成仏論を見事に完成させたわけで最澄などとは器が違うのである。
ただ、この時代の日本における仏教は中国と同様、鎮護国家の思想の下、国家の管理下で統制されており、年ごとに一定数の得度を許可する年分度者の制度が施行され、原則として私度僧は認められていなかった。このことは逆に仏僧と国家権力が容易に結びつく原因ともなる。まさに最澄もそうだった。
また、延暦寺大乗戒壇の設立は、宗派内の醜い権力闘争(天台宗の山門寺門の争い*)の原因ともなり、また、戒壇で授戒を受けた僧侶の中には修行もせず堕落した僧侶も急増した(信長の焼き討ちの遠因でもあろう)。以後、南都や延暦寺が対立するなかで成立した鎌倉仏教も独自の得度・授戒の儀式を行うようになっていった。
(*)山門寺門の争いとは、天台宗が山門派(延暦寺)と寺門派(園城寺)に分裂し、長年にわたって両派の間で行われた抗争のこと。
貞観10年(868年)に最澄の弟子・円珍は第5世天台座主に補任される。円珍は密教の加持祈祷を求める貴族に応え、貴族社会との結びつきを強めていくことにより延暦寺の勢力が拡大していくが、一方で顕密両学の方針が崩れていき密教化が進んだ。それと共に延暦寺内では円珍門徒が主流となり、円珍が在職した23年間に主要な職は円珍門徒が独占するようになる。円珍の没後も台密を中心に延暦寺は隆盛し、天台座主も第9世天台座主長意をのぞく第14世まで約50年間にわたって円珍派が独占した。
↑円珍
これに対し10世紀後半に円仁派の良源が第18世座主に就くと密教に重きを置く円珍派と対立し、円仁派(山門)と円珍派(寺門)が藤原摂関家や朝廷を巻き込んで争うようになった(ときに摂関家や朝廷には強訴を行ったりもした)。
11世紀に至り、山門派が比叡山の戒壇から寺門派を排除すると両派の対立が決定的になり、互いに擁した僧兵(**)による武力行使が繰り返し行われた。特に、圧倒的な人数を擁した山門派の山法師は園城寺を繰り返し焼討した(こんなことはあまり知られていないが信長の焼き討ちだけやけにクローズアップされるが、延暦寺の行為はもっと大河ドラマなどで取り上げてはどうだろう)。
↑三井寺・弁慶引き摺りの梵鐘として公開
その後に両派の対立は、権門寺院の取り込みを図る武家の政権争いに巻き込まれ、平安末期には源氏と平氏に(比叡山にいた弁慶は園城寺の焼討の先鋒として園城寺:三井寺を焼いたのちに弁慶は強力にまかせて梵鐘を奪い、比叡山上まで引き摺って帰り大講堂の鐘楼に吊るしたところ鐘が「イノーウ(「帰ろう」の意)」と鳴ったので、園城寺に返されたという伝説があり、義経も弁慶を家来にするしかなく、結局、園城寺派の鎌倉側に滅ぼされてしまう)、中世には北朝と南朝に分かれて争った。
天台宗には本覚思想という「凡夫を即時的に如来と同一視し、罪業や悪を恐れず修行も無用」に裏打ちされた延暦寺の僧兵らは自らの蛮行を正当化する始末であった、
(師匠の最澄が宗教政治にあけくれたため、弟子も負けじと政争狂いか、天台宗よ、あきれてものも言えんわ)。
(**)そもそも奈良の興福寺などの大寺院は広大な領地(荘園)を守るために、寺の雑役夫(堂衆という一般人)たちが武装した集団であった。平安時代末期からは、延暦寺などでは強大な武力集団となり、各地で乱暴狼藉(例えば平家物語や弁慶物語には武蔵坊弁慶の傍若無人ぶりが記されている)を働いた。僧兵のあまりの無謀さに、室町時代に天台座主だった足利義教が、織田信長以前に延暦寺討伐の兵を送り、大弾圧を行ったが、命脈は途絶えず、信長の全山焼き討ちで延暦寺の僧兵は滅んだ。
結局、天台宗にとっては、毎年各宗派に振り分けられる得度許可定員に天台宗から2名受け入れられることになるわけで、たまたま手に入れた密教が思わぬ効果を発揮したため天台改宗のおりには得度者の半分を占めてしまった。
しかし、最澄の持ち帰った密教は完全なものではなかったため、完全版を持ち帰った空海にたよらざるを得ず、密教教典類を借りたり、毎年の得度者の密教担当僧には空海に教育を依頼する。
中には泰範のように空海のもとを離れなかった者がでてしまう始末。
そして、最澄は、一挙両得とばかり「法華経と密教は同趣旨仏教だ(円密一致)」などと言い出して、密教は顕教より優れた仏教だと確信した空海とは縁が切れることになる。
そもそも桓武天皇が、病気平癒に効果があったのだろうか、密教の秘技が古来より行われており、天台宗だけではなく、真言宗も同じような法会を行っているが、所詮この頃の仏教は管制のものなので、坊主たちは、鎮護国家と天皇家の安泰のみを祈祷するのが主目的なので、民衆にとっては関係のないもので、この法会が両宗派の最高法儀(主に天皇のために行う行事が最高)と自ら公言しており、もっと一般民衆のために最高なことをやって欲しかったものだ。その意味からは、真言も天台も奈良仏教同様の古代仏教にすぎず、広く民衆のこころをとらえるのは鎌倉新仏教まで待たねばならんといえよう。
そこでまずは、天台宗の「天皇と国家の安泰(国体護持)を祈る御修法(みしほ)であるが、毎年4月上旬、比叡山に天皇の御衣を迎えて行われ、全国から参集した高僧たちの唱える声明・真言・護摩などの行法に助けられながら、曼荼羅と大壇の前で座して祈るという絢爛たる行事である」そうだ。
天台宗では、毎年4月4日から11日まで比叡山延暦寺の最高法儀「御修法(みしほ)」が、17人の高僧によって厳かに執り行われる。起源は桓武天皇の時代にまでさかのぼる御修法は玉体安穏、天下泰平を祈るもので、ちなみに2025年は5つの大法のうち「普賢延命大法」が行われた。
執り行われる際には、宮内庁の天皇使によって、天皇陛下の衣装「御衣」を納めた唐櫃が大書院から根本中堂へ運ばれて内道場に奉安されてから、天台座主を大阿闍梨に、五箇室門跡の門主らの高僧が、「玉体安穏」、「天下泰平」、「万民豊楽」等を祈願して二十一座のお勤めが行われる。
なお、御修法大法は、大壇、護摩壇、十二天壇、聖天壇の四壇を築いて奉修する天台密教最高の秘法で、804年に伝教大師が弟子の円澄に五仏頂法を修めさせたことが起こりとされています。明治維新で中断したが、1921年に再興された。
一方、真言宗では、後七日御修法(ごしちにちみしほ)があり、毎年正月8日から14日まで京都の東寺で行われる、玉体安穏・鎮護国家・五穀豊穣・万民豊楽を祈る法会で、元来は宮中真言院で行われていた宮中行事が、空海の奏上によって承和2年(835年)に始められた。しかし、明治4年(1871年)に神仏分離によって廃絶させられたものの、明治16年(1883年)に再興され、現在は勅使を迎え東寺の灌頂院で十八本山が一堂に会する真言宗最高の法儀として執り行われている。「後七日」とは正月8日から14日の7日間を指し、「修法」とは加持祈祷の作法で「御」は勅願を意味する。
御修法は、その起源をたどるとインドのヴェーダ祭祀に至るわけで、ヴェーダには神学的占星術があり、これを含めたタントラ密教の摩登伽経が紀元前後に成立、これを元に5世紀から6世紀にかけて宿曜経が成立するが、その過程で中国の道教(***)の流れを汲む陰陽や五行思想(古代中国に端を発する自然哲学思想で、万物は火・水・木・金・土の5種類の元素からなるという説)が取り込まれ(いわゆる陰陽道)、唐王朝は星占によって吉凶を占ったため、空海はこの修法を伝えたものと考えられる。
陰と陽の太極図
(***)道教は、老子の思想を根本とし、その上に不老長生を求める神仙術や、符籙(おふだを用いた呪術)・斎醮(亡魂の救済と災厄の除去)、仏教の影響など様々な要素が積み重なった宗教で、中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽説と五行説、陰陽思想と五行思想の組み合わせによって、全ての事象が成り立っているとする(天文学・易学・暦学と密接に関連)。
↑お札を用いた呪術(キョンシー映画「幽幻道士」より、呪術を使いこなす女の子・テンテンは可愛かったな)
陰陽五行思想・暦法の吸収のために始まったのが遣隋使派遣(600〜618)であり、おかげで聖徳太子(574〜622)の十七条憲法や官位十二階策定へ大きな影響を及ぼしたという。また、天武天皇(?〜686)は、陰陽五行思想への知識が豊富で日本初の天文台を設けた。
陰陽道に詳しい陰陽家であった藤原家始祖の中臣(藤原)鎌足(614〜669)が陰陽寮を確立すると、陰陽道は、道教や密教・宿曜道・古神道などの要素を併せ持ち進化発展していく。
785年藤原種継暗殺事件以降の弔事頻発(魔女・薬子の変)に関連して怨霊存在にビビった桓武天皇(737〜806)は、奈良仏教からの威圧も嫌い平安京遷都実施(794)を端に朝廷を中心とする怨霊鎮魂のための御霊信仰が広まり、悪霊退散のために強力な呪術的手法として古神道や霊符呪術のような道教的呪術がますます注目されるようになった。
また、陰陽道は、占術などに用いられる事もあったし(日本の陰陽師は道教の日本版道士のようなもの)、細木数子などの四柱推命は、中国で陰陽五行説を元にして、生まれた年・十二節・日・時の干支を柱とし、生まれた人の命運を推察する方法である。
9世紀始め頃から、宮中では元旦から1月14日まで年始行事が行われ、これを前後に分けて前七日では神道による節会、後七日には仏教による御斎会が宮中の大極殿にて行われていた。御斎会(古代から中世に渡って宮中で行われていた仏式の正月行事)は、毎年正月8日から14日までの7日間にわたり大極殿にて『金光明最勝王経』を講説し、講読するだけの法会であったが、承和元年(834年)に空海は単に講読するだけでは効験が期待できないとし、『金光明最勝王経』に説かれる法則にしたがった密教修法を行い顕密二趣による法会を行うことを上奏、実施を許された空海は、唐に倣って宮中に内道場(真言院)を建立し承和2年(835年)に御修法を初修した。以降、後七日には東寺長者が大阿闍梨を務める御修法と、南都寺院による御斎会が相対して行われてきた。
御修法の眼目は鎮護国家であるが、11世紀頃末ごろに「国家」は直接的には天皇を意味するようになり、玉体安穏をもって国家の安泰(国体護持)と豊穣を祈る法会となった。初日には御衣伝達式が行われ、御衣は勅使(宮内庁)が唐櫃に収めて下附し、灌頂院の内陣に安置する。
↑真言宗総本山、京都・東寺(教王護国寺)
また修法は両界曼荼羅を安置して行われ、それに徐々に五大尊像・十二天図像が加えられ, かつて宮中の仁寿殿と清涼殿の二間で行われた観音供の本尊であったことから「二間観音」と呼ばれる秘仏《聖観音菩薩・梵天・帝釈天立像》(13世紀の作・平安期のオリジナルは宮中の火事で消失した)は東寺に移されてそのご開帳も御修法で行われる。修法は1日3回行われ、毎時行法の最後に大阿闍梨により御加持(御衣加持)が行われる。
↑両界曼荼羅の片方の胎蔵曼荼羅
また、12日の初夜から結願日の終夜までの都合9回、香水祈祷が行われ、結願の後、御衣・香水などを勅使に進上して終了する。香水は天皇が湯船に入れて浴すとも、御粥に加え入れて食すとも言われているとのことで真言宗の方はウィキに詳しい解説があった(まあどちらの宗派も似たようなものだろうけどね)。ただ、東寺の秘仏「二間観音」の開帳は、NHKの特番「秘仏開帳」と、今年の東京国立博物館「空海と真言の名宝」展で展示物を見てとても感激したものだ。
↑二間観音(京都・東寺蔵ただし秘仏、2026年東京国立博物館に展示された)
さて、志半ば57歳で心労のため没した最澄、これじゃ法華坊主が宗教政治に明け暮れて結局、台蜜も自分では完成できなかったわけで、後に続く弟子たちがなんとかカバーしてくれたということだったというから、自身は志半ばに行き倒れしたようなもので、所詮、二兎を追うもの一兎も得ずということかもしれません。
↑最澄の弟子の円仁が唐から持ち帰った八十一尊曼荼羅(一会の金剛界曼荼羅で特殊なスタイルだという)、兄弟子の円仁は、「大乗仏教はすべてが密教であり、法華経などは理念として説かれた密教(唯理秘密)であり、大日経・金剛頂経などは三密修行の方法をも併せて説かれた密教(事理倶蜜)であるとして、すべての仏教思想を包摂した円蜜一致(天台の教えを円教という)の理論」を発表する。
↑円仁
弟弟子の円珍は「釈迦と大日如来が同一人物だ」との賜り天台宗を強力に密教化していく。















