仏教(密教)でも、ヨーガ(禅とも違うらしい)があるとは知りませんでした。
まず、インド仏教史では、小乗 (Hīnayāna) 、大乗 (Mahāyāna) 、金剛乗(密教)の大きく三つに分かれているそうです(でも小乗は差別用語につき使用禁止、いまは上座部というそうな)。
日本には、大乗仏教(禅宗含む)と密教(真言宗・天台宗)があることは知ってましたが、特に「密教」についてはわからんことが多いですね。
昔、歴史の授業で「平安時代に弘法大師・空海(774~835年)が、中国(当時は唐)から「密教」の教典・曼荼羅などを日本に伝来させた」と教わりました(空海とは、彼が20代の頃、四国の室戸岬で修行中、海と空ばかり目にしていたので「空海」と名乗ったんだそうです。また、四国八十八ヶ所巡礼の人が「南無大師遍照金剛」と唱えていますが、「遍照金剛」とは、「この世の一切を遍く照らす最上の者」という意味で、空海が中国で阿闍梨の位を頂いた時にもらった名なんだそうで、まさに空海という人物の天才たるや驚天動地じゃあ!)。
しかし、空海が仕入れてきた密教は中期頃のものなので、後でインドの後期密教の「タントラ」の中身を知った真言宗の関係者は、「密教はタントラではない」と言い張るでことでしょうし、そもそも日本語の密教は真言宗の用語だと思い込んでいる節もあるし、さらに日本のほとんどの一般人は密教なんてわからんし、そもそも法事の際にどうせ何を言ってるかわからんのでお坊さんに適当にお経を唱えてもらえばなんでもありがたいなんてね(ちょっと乱暴?)。
そもそも日本以外の国では、「タントラ(教)」と「密教』というふたつの言葉は、厳密には区別されることなく用いられる(仏教にタントラが入り込んで密教になった)が、日本では「密教」を金看板にする真言宗の関係者は二つを同義とはしなかったというか出来なかったんでしょうね多分。
9世紀初頭に空海が唐から真言密教を我が国に持ち帰ったんだけど、インド密教はその後400年間年間に劇的に変化していったわけで、日本にしては未知なるその期間にインド密教(正確には後期密教)が取り組んで完成させたのが「ハタ・ヨーガ」でありました。
そもそも仏教の開祖・仏陀(釈迦)は当初は弟子たちにとっての「師」であって、一般大衆の「神・ホトケ」ではなく、時とともに、仏陀のイメージが変遷していったというわけだろう。
西暦1〜2世紀には「阿弥陀経」・「法華経」といった大乗経典が成立すると仏陀は「五色の雲の上の仏」となり、さらに仏教徒は菩薩・明王・天などの尊格のイメージを6世紀頃(「作タントラ」の時代)までに作り上げてしまったわけです。
なお、タントリズム(6〜7世紀)というのは、祭式要素と土着の文化を吸収した聖俗を併せ持つ神秘主義的要素を持っており、仏教が3世紀頃からバラモン式儀礼を徐々に取り入れるようになってから俗の極みのタントリズムを吸収していくようになったようです。
それは、まず諸仏・諸尊への讃歌、供養祭(プージャー)の方法、祭壇の作り方、手印(ムドラー)の結び方、諸仏の描き方などの「作法」を説く教典を成立させたのですが、これを「作(サ)タントラ」といいます。
7世紀ころに「大日経」が出来て、仏教タントリズムが確立しました。それまで、祭式は現世利益を得るためのものであったのが、マンダラを用いた儀礼によって「心で観想する精神化」に成功し、これを「行タントラ」といいます。
7世紀後半に「金剛頂経」が出来て、実在と現象をつなぐものが金剛界マンダラであり、両者の相即不離がヨーガ(瑜伽)であり、この「マンダラを観想して行うヨーガ」により悟りが得られることが「ヨーガ(瑜伽)・タントラ」なのである。
密教は、大日経と金剛頂経という両経の成立を機に、思想的にも、実践的にも体系化整備されたといえる。
(ここまでを空海が、中国経由で日本へ持ち帰り真言宗を開くわけですが、ここまででホントよかったと思います。)
真言宗開祖の空海は、日本の仏教を顕教・密教と二つに分けて、自らの奉ずる「仏教」を密教と呼んでいた節がある。
なお、真言密教では、修行者は観想のうえ自ら(小宇宙)が大日如来*(全宇宙)になること(両者の相即)を、そうした自らを礼拝することで、全宇宙が大日如来の顕現であると実感すること(「入我我入」すなわち「即身成仏」)ができたのだそうだ。
また、インドでは、我々を包含する大宇宙と身体存在に象徴される小宇宙との一体化をヨーガ(瑜伽)と呼んだ。
*大日如来は、Mahāvairocana(マハーヴァイローチャナ)を摩訶毘盧遮那(まかびるしゃな)と音写し、大遍照、大日遍照などと漢訳されて、摩訶毘盧遮那如来、遍照如来とも呼ばれる。
大乗仏教では三身説(仏には姿・形をもたない宇宙の真理たる法身仏《大日如来など》、有始・無終の存在で衆生を救う仏である報身仏(人間に対する方便として人の姿をして現れることもある)、衆生を救うため人間としてこの世に現れる応身仏《釈迦如来など》がある)と説明される。
なお、台密では釈迦如来は人間を救うために現世に現れた大日如来の化身であると解釈され、東密では、顕教の釈迦如来と大日を別体としている
大日如来の「智」の面を表したのが金剛界の大日如来であり、「理」の面を表したのが胎蔵界の大日如来であるとされ、この金剛界の智法身と、胎蔵界の理法身は一体不可分(両部不二)であるとされ「両部の大経」と称される。
↑世界で最も美しいとされる大日如来像(チベット・シャル寺)
また、真言宗では密教をさらに二系統(以下①と②)に分けている。
①「大日教」=インドにおける成立は、7世紀前半頃で他者を優先的に救ってこそ悟りを得られるとみなす大乗仏教の理念を継承しつつ大乗仏教と密教の橋渡し役的役割を果たしたと言われる。
三密行(仏の身・口・意の三つの働きを私たちのそれらと一致させ一体化(即身成仏)することを目指す修行)として手に印を結び、口に真言を唱え、心を三昧(実際にはマンダラ)に集中することを説いているが、特定の仏を本尊として心の中に産出して一体化しようとする本尊瑜伽(ヨーガ)としては十分なものではなかった。
というのも、金剛頂経とは異なり、単経のため影響力はイマイチのようで、大日経というのは本尊の毘盧遮那を大日如来と漢訳されていたことによるためだが、これも東アジアの漢字文化圏のみで通用しているそうだ。なお、経の最も重要文句が「三句の法門」であり、つまり「仏(世尊の大日如来)のいわく、菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」とある。
:胎蔵界マンダラ(中央には心臓の象徴である八葉蓮華に座す大日如来が座し、周りを囲む方形は悟りを求める心である菩提心を表す)は、大日如来の大なる慈悲が、私たちの菩提心(悟りを求める心)を宿し、育み、生み出し、成長させ、ついには悟りへと導くことを表現するマンダラといわれるが、インドでは シャカで救われる人もいれば、 神々によって救われる人もいるとして、ともに等しく大日如来の化身なのだとの思想だったのが、日本の胎蔵曼荼羅では、ヒンドゥーの神々はいちばん端に追いやられており、『大日経」の思想を正しく伝えるものにはなっていないそうだ。
↑胎蔵界マンダラの中央部(中台八葉院)大日如来は定印を結ぶ。(曼荼羅は絹の上に転写。西新井大師所蔵)
↑空海の胎蔵界曼荼羅(京都・東寺)
②「金剛頂教」=7世紀後半頃に大日経よりやや遅れて成立。
金胎両部といわれる狭義(初会金剛頂経)のそれは毘盧遮那如来を中心とする五仏のマンダラと聖俗一致を保証する成仏の理論と実践を基盤とし、そこから多くの密教聖典(理趣教を含む)を生み出しそれらを空海が用いた広義のそれの双方の捉え方がある。
なお、インド密教における金剛頂教では、「実在」と「現象」という二つのものが、「同じではない(不一)」が「別々でもない(不異・不離)という相矛盾するような関係が切り離せず一体化する(仏教用語で「相即」という)ために両者をつなぐものが五仏を中心とする金剛界マンダラであり、相即をヨーガ(瑜伽)と名付けられた。
さらに、大宇宙を形成している一切如来は「摩訶毘盧遮那(大大日)」と呼ばれ、無限定(無始無終)なる法界の相をとり、マンダラ全体を象徴する法身の毘盧遮那である。この摩訶毘盧遮那が、本来は次元の異なるわれわれの現象世界に顕現するために、みずからをマンダラの一尊として自己限定し、その中央に位置して狭義の毘盧遮那となり、さらにその四方に阿閦等の四仏を展開するのである。それについてお経の中で以下のように説いている。
「そのとき、阿閦如来と、宝生如来と、阿弥陀如来と、不空成就如来とは、みずから自身を(自己顕現した)一切如来であると神秘的に確立し、世尊釈迦如来が、一切が平等であることをよく洞察していることに基づいて、(それらの四如来は)あらゆる方位が平等であることを理解して、四方にそれぞれ座られた」
このように無限定・無限大から最初に一(中心)が生じ、ほとんど時間を置かずにその四方(東西南北)に四仏が出生して、合計五仏となる」、これが有名な五智如来である。
密教化が進展していた「金剛頂経」では俗なる世界にいる私たちが、聖なる世界へ短時間で飛翔することができる密教(タントラ)瞑想法を発案した。
菩提心の感得から、それをより強固にするためにヴァジュラといわれる密教法具の金剛杵を想起して行者自身の金剛性(最高実在感)を体得する。最後に「オーン。私は一切如来と同一である」という仏身円満の万能のマントラ(真言)を唱える(それ以前の各段階においても特有のマントラがあり、それを唱えることは言うまでもないが)ことにより、行者の存在が仏のそれと同一であることを三密行を通して体得するわけである。これこそが「究竟次第」といわれる金剛頂教の主要な思想・実践上の中心的役割を担うわけで、これにより空海も見事に即身成仏を遂げているといっても過言ではないだろう。
まとめると、金剛頂経は他者救済優先の大乗仏教路線を完全放棄し、仏教の原点である自身の悟りを優先する路線に回帰してインド密教の主流となるのである。修行法も曼荼羅(マンダラ)も完成度が高く、空海も悟りを得るには金剛頂教の修行法が必須であるとしている。
:金剛界マンダラ
は、①を発展させ、仏教の精緻で複雑な思想を含め、何千何万という階層にストックされた仏教の全情報を都市の俯瞰図のような<仏の視座>を持たせた。
真言密教では、金剛界マンダラは九つの部分からなる九会マンダラが用いられており(見たことないけど最澄の台蜜は、成身会のみの一会マンダラだそうだ)、九会マンダラの大きな特色としては、先に紹介した胎蔵マンダラとは異なって、同じホトケたちが何度も姿・形をかえて登場することである。これはあたかもドラマにおいて、場面が異なっていても同じ役者が服装をかえて登場するようなものであり、正装した公式的な場面もあれば、怒りに身を震わせる場面もある。実に九会マンダラは、喜怒哀楽の交錯したドラマの世界といえるだろう。
なお、九会マンダラの構成と内容は、次の9つである。
1成身会(羯磨会・根本会): 金剛界マンダラの中心で、密教的世界を尊形(具体的な姿・形)で表現したもの。組織でいうと、全体総会にあたる。
2 三昧耶会:成身会を、諸尊の働きを示す持物(三昧耶形)などで表現したもの。
3 微細会:中央に位置する三十七尊は、小さな(微細) 金剛杵の光背を持つ。成身会を文字、もしくは音で表現しようとしたもの。聖なるものと波長を合わせて共鳴するバイブレーションの世界といえようか。
4供養会:五仏以外の諸尊は女性の姿で表される。成身会の内容を諸尊の働き、もしくはエネルギーで表現したもの。
5四印会:成身会を簡略化し、代表的尊格のみで表現したもの。すなわち、五仏のうちの大日如来と、十六大菩薩中の各方位の代表的四菩薩のみを配している。会社でいうと、局部長会議といえる。
6 一印会:成身会を一尊、すなわち本尊の大日如来のみで表現したもの。いわば、社長室にあたる。
7 理趣会: 金剛界マンダラの教えを、煩悩即菩提のホトケである金剛薩埵などで表現したもの。この会のみ、大日如来がまったく登場しない。
8 降三世会 :素直に教えに従わないもののために、忿怒降伏のホトケ降三世明王を表現したもの。成身会などの金剛薩埵の個所が恐ろしい降三世明王にかわっている。
9 降三世三昧耶会: 8の降三世会を、諸尊の働きを示す持物などで表現したもの。
曼荼羅としての完成度は胎蔵界マンダラをはるかに超える出来で、理智的で堅い印象があるが、空海は悟りを成就するためには金剛界曼荼羅を用いる瞑想が不可欠であると主張したほどの重要な曼荼羅である。
↑金剛界マンダラの中央部(成身会)大日如来は智拳印を結ぶ。
(曼荼羅は絹の上に転写。西新井大師所蔵)
なお、この②からは、空海が唐から持ち帰った金剛界マンダラ(九会曼荼羅)の右上に「理趣会」が配置されていることから、男女の愛を肯定する「理趣経(*):無上瑜伽タントラ」の存在を空海が知ることで、実際は真言宗が、そんなに深くはないかもしれないがヒンドゥー教タントリズムともある程度は結びついていたことが明らかになってしまうのである。
↑空海の金剛界マンダラ(京都・東寺)の全体で9つある区画の右上段が「理趣会」である。
(*)「理趣教」は、正式名称『般若波羅蜜多理趣百五十頌』(梵: Prajñāpāramitā-naya-śatapañcaśatikā, プラジュニャーパーラミター・ナヤ・シャタパンチャシャティカー)といい、『金剛頂経』十八会の内の第六会にあたる『理趣広経』の略本に相当する密教経典である。理趣とは、道筋の意味であり、「般若の知恵に至るための道筋」の意味である。煩悩も悟りへの導き手になりうるという思想を展開し、性愛の歓喜もまた菩薩の境地と他ならないと説く。最もよく読誦されているものは、中国僧の不空が763年から771年にかけて訳した訳本・『大楽金剛不空真実三摩耶経』である。
他の密教の教えが全て修行を前提としている為、専門の僧侶でないと読んでもわからないのに対し、『般若理趣経』は行法についてほとんど触れておらず、一般向けの密教のセックス入門書という位置づけで、中身は性生活で運命も変わることとか様々なセックスの方法解説やら恋愛の関係までが盛りだくさん言及されている。ということで、平安時代の宮廷貴族の間では教養書として大流行したそうで、かの源氏物語にもこの経典が出てくるほどだ(たしかに光源氏がヤリまくってるわけだし、エロ小説ともいえないでもないな)、まさにセックスと恋愛によって生き方が規定されるという主旨なのには驚くぜ。
そして、密教に関して理趣経がらみの事件が起きたのが、天台宗の開祖である最澄(入唐時には既に天皇の護持僧で仏教界では超有名だった)が、当時は無名で若輩の空海に辞を低くして弟子入りし、弘仁3年11月から12月に密教の伝授を受け、灌頂まで受けた。
↑伝教大師・最澄
最澄と空海の仲は当初非常によかったが、最澄は天台教学の確立を目指し繁忙だったという理由で、空海から借経を幾度となく繰り返していた。空海は快く応じていたが、弘仁4年11月23日、とうとう『理趣経』の解説本である、不空(**)の『理趣釈経』を借りようとして堪忍袋の緒が切れた空海から丁重に断られたという事件である。
(**)不空は中国・唐の高僧、訳経僧で110部143巻もの経典を漢訳し、鳩摩羅什・真諦・玄奘三蔵とともに、四大訳経家と呼ばれ、真言宗の重要経典である『理趣経』は、不空が翻訳したものである。
唐の時代、大日経の祖師・善無畏と金剛頂教の祖師・金剛智が密教を中国に紹介し、二人のそれぞれの傑出した弟子の一行と不空が密教を中国に広めた立役者だ。
特に、金剛智の34歳年下の弟子の不空は、インド系の父親と西域系の母親を持つ、当時ではこの混血が長所となり、唐の玄宗皇帝にはたらきかけたりと超人的な行動力で中国全土に密教を広め絶頂期を築きあげた。金剛智も不空を弟子にした当初は気にもかけなかったが実力が凄まじく終に手元から不空を手放すことはなかった。
その後、不空を失った中国密教は、民俗色の強い道教、国家公認の儒教に押されて、不空の弟子の恵果になってかろうじて命脈を繋いでいた。そこに忽然と現れたのが日本からやってきた空海だった。
空海によると、これは「修法の会得をしようとせず、経典を写して文字の表面上だけで密教を理解しようとする最澄を諌めたもの」で、空海は「密教では経典だけではなく修行法や面授口伝を尊ぶこと」、最澄が著書で「不空の法は自分の奉じている『法華経』より劣る」と密教をけなしたこと、「面授や修行なしにこの経文を理解することは師匠も弟子も地獄に落ちる振る舞いであること」を理由に借経を断ったという。俗に、この『理趣経』の十七清浄句が、男女の性交そのものが成仏への道であるなど間違った解釈がなされるのを懼れたためともされている。
さて、日本密教では胎蔵・金剛界曼荼羅の両部を不二(相反する二つのものが、実は一つの本質を持つ、絶対平等)とする(ただ、二元論好きな中国で両部不二とした曼荼羅を中国僧の師匠・恵果(***)から空海は託されただけなのにね)が、チベット密教では無上瑜伽に父(方便,活動)と母(般若,智慧)をたて、これを不二とするのだそうだ。
(***)恵果は前述の不空の弟子。
中国仏教が風前の灯となった唐代末、不空の弟子であった恵果は、自分の後継者を空海と目論んだが、日本への帰国希望を知って、中国密教を日本で花開かせようと多くの経典・法具・曼荼羅を空海に託したのだった。
空海が帰国後の40年後に、中国では会昌の破仏(842~845)が勃発、中国全土を覆い尽くし中国仏教は風前の灯状態になってしまう。密教界も人材を欠き、次第に俗信的な道教に飲み込まれていかざるを得なくなる。また、中国では漢民族王朝以外の元朝、清朝ではチベット仏教(いわゆるラマ教)が国教となる。
なお、チベット密教では、日本密教のように、大日経の胎蔵曼荼羅と、金剛頂経の金剛界系の各種曼荼羅が、つまり胎蔵・金剛界の両部は同一ではなく、胎蔵界が進化して金剛界になったものだとの理由からで、チベットには胎蔵界マンダラがほとんど遺っていないとも考えられる。どちらが正しいという話ではないが。
インド研究の大家・伊藤氏の見解では
7世紀頃の作品「胎蔵マンダラ」は、中国でアレンジされた日本密教の胎蔵曼荼羅とはかなり様子が異なるが、 インド人がこのマンダラにいかなる宇宙を託そうとしたのかが、以下の通りよくわかる。
↑19世紀作のチベット版胎蔵マンダラ(富山・立山博物館)
「大日経」のテーマである
-bodhicitta-hetukam karunā-mūlam upaya-paryavasānam.
(菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とする)
という「三句の法門」が、胎蔵界マンダラにおいて三重の方形でカタチにされているのだ。この「三」は、「バガヴァッド・ギーター」の3つのヨーガとも対応を見せる構造になっているそうだ。
中央に、八葉蓮華があり、大日如来がいらっしゃる。そして、それを囲む最初の「菩提心」(悟りを求める心)の方形が出来上がる。
八葉蓮華は古来より心臓の象徴であり、胎蔵界マンダラにおいては「大宇宙の心臓」であり、観想する 個々人の心臓でもある。
すなわち「菩提心」ゆえに、我をふくめた万象は生起するのである。すなわち、こうした存在のありようを見極めることが、ジュニャーナ・ヨーガ(智慧のヨーガ)である。
つぎの「大悲」(悲み)の方形では、シャカとヒンドゥーの神々が仲よく同居している。偉大なる如来の、衆生を救いたいという慈悲のあらわれだ。シャカで救われる人もいれば、 神々によって救われる人もいる。ともに等しく大日如来の化身なのだ(ただし日本の胎蔵曼荼羅では、ヒンドゥーの神々はいちばん端に追いやられており、『大日経」の思想を正しく伝えるものにはなっていないといえる)。すなわち、人の側から見れば、神仏にすがるパクティ・ヨーガ(帰依のヨーガ)である。
3つ目の「方便」(慈悲にもとづく実践)の方形には、上から時計まわりに①文殊菩薩、②除盖障菩薩、③虚空蔵菩薩、④地蔵菩薩が、その眷属とともに配されている。かれらの機能(知恵、武力、流通、生産)から推して、バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラの4カーストの表象だと考えられる。これは身分差別ではなく、人の天職はおおむねこの4つに関連する職業に分けられるということを示したものだ。各人がおのれの天職 (ダルマ)をきわめることが、すなわち、方便(実践)、カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)となる。
「大日経」の成立地と考えられる東インドのオリッサ州では、 当時、仏教とヒンドゥー教が仲よく同居していたそうだ(ここが一神教のキリスト経やイスラム教とは異なるところだ)。
金剛界マンダラ
「大日経」の思想と胎蔵マンダラのデザインを発展させたものが「初会金剛頂経」と金剛界マンダラだ。
金剛界の①大日如来(白色)の周囲には②阿閦如来(緑色)、③宝生如来(黄色)、④阿弥陀如来(赤色)、⑤不空成就如来(黒または紫色)の四仏を置く。これを金剛界五仏といい、胎蔵マンダラとは大日の結印が異なり、四方の四仏も総入れ替えだ。
さらに金剛界マンダラは、仏教の精緻で複雑な思想を、きわめてシステマティックに整理してみせたのだ。
↑赤身の阿弥陀如来・高野山正智院
↑智拳印を結ぶ中尊・大日如来
たぶん手指の数に由来するのであろうが、仏教にかぎらずインド哲学を構成するコンセプトは、五蘊、五大元素、五感覚器官、 五運動器官………………などなど、ほとんどが5つ組から成る。その 5つを、井桁の中央と四方の区画に嵌めこみ、ホトケの体色、 表情、印契、持ち物・・・・・・などをもって象徴する。
かくして、何千何万という階層をつくってストアされている仏教の全情報を、都市や地形の俯瞰図のような一ぺんの風景として見わたすことができるようになる――このマンダラは、行者をして、いわば「ホトケの視野」を有することを可能にしたのである。
また、チベットやラダックなどのインドの北方で胎蔵界マンダラがほとんど見当たらないのは、仏教がこの地方に伝わった時期とも関係があるのかもしれないというし、大日如来が、チベット密教では、『大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)』系の行タントラ、『金剛頂経』系の瑜伽タントラの主尊とは位置付けられるが、後期密教の無上瑜伽タントラの根本仏は金剛薩埵や持金剛仏などとされており、日本密教における「大日如来は密教の根本仏」という観念は、チベット仏教には当てはまらないそうだ。
ともあれ、チベットのマンダラは、日本のものよりはるかに幅が広く、まだまだ未知の部分が多いそうである。
↑金剛界マンダラの全容(ラダック・アルチ寺)
日本のような、九会マンダラではなく、一会のみのマンダラである
↑金剛界マンダラ(ラダック・アルチ寺)
。
↓上掲の中央部
↓上掲の金剛界マンダラの中尊・大日如来は四方遍く見渡す4面で描かれているが、日本ではこのようには描かれない。また、座位は、獅子の座(百獣の王として釈尊などを獅子で表すことが多い)で、四方の四仏も象や孔雀などの鳥獣に座している。
立川武蔵氏共著の「インド密教」によれば、
「仏教発祥の地インドでは、主に「金剛頂経」の存在論をベースにして、成仏実現のリアリティを強めるために、三密のうちの身体要素を強調し、生理的行法や性的行法のような極端な方向に向かう実践とそれに伴う思想が強く展開されていったのを鑑みると、「大日経」・「金剛頂経」はとても穏健な経典であることは論をまたない。ただ、「大日経」は大乗仏教の菩提道に関する漸進性・段階性を色濃くしているが、一方、梵我一如の大前提から習俗への大きな落差をヨーガ(瑜伽)により無時間的に合一視しようとした「金剛頂経」とは隔世の感がある。それゆえにインド・チベットの密教分類法では「大日経」を第二段階のチャリヤー(行儀)・タントラに、「金剛頂経」を第三段階のヨーガ・タントラとして位置付けている。」
さて、結局、空海という人は、終生ヨーガ行者であり続けたんじゃなかろうか。
空海の新仏教・真言宗は、すなわち「即身成仏の教え」であるということだからだ。
というのも、空海がこの教えに出会ったのは、東大寺の大仏に祈誓して 「大日経」を感得したときとされており、空海は具足戒をうけた後に、東大寺の大仏殿に参龍して、仏前にひれ伏し、「われに不二(至極)の法を示したまえ」と折響し、三七日間の参龍三昧にはいった。
この時の心境を空海は次のように記している。「われ仏法に従って、常に要点を求むるに、三乗五乗十二部経、心神疑ありて、未だ決すること能わず。ただ願わくは三世十万の諸仏われに不二を示したまえ」と。
この結果、『大日経」を感得し、即身成仏を説く経文にであった後、この教えを極めるために空海は唐に渡ったわけである。
なお、当時行なわれていた仏教の主流は、いわゆる南都六宗であって、いずれも永い年月の間、修行をしなければ成仏できないという「三却成仏説(**)」であった。こうした中で「即身成仏説」を声高く空海が提唱したのであるから、一大センセーションをまきおこすことになった。
(**)AIによると、人が悟りをひらくまでに途方も無い時間がかかるということで、たとえば「100年に一度しか舞い降りない天女が巨大な岩を彼女の羽衣でなでて、岩がなくなるまでの時間」を3回繰り返すほどということで、悟りをひらくには想像を絶する歳月(一世代ではとても無理な話)がかかりますよということ。
密教の特徴は、目的達成のために必要とされていた膨大な時間の修行を不要とするもので、密教においては自らの方法論を「真言のやり方」として、それまでの大乗仏教の「波羅蜜のやり方」において必要とされていた三却成仏説の三阿僧祇却という膨大な時間を一挙に短縮することを意図したことだ。
そして、最終的に空海は自ら一人のヨーガ行者として御庵室に籠り、宿願であった現世においての即身成仏を果たし(高野山の奥の院では今でも民の幸福を祈り続けているともいうが、確認されたわけではなかろう)たというわけだが・・・
↑高野山・奥の院
私は、真言密教は、大衆を救うという大乗思想を取り込んだ最澄の台蜜(空海を妬んで始めただけの密教なので、根はただの法華坊主だけどね)に比べると個人の奥義を極めるということ(即身成仏)を主眼目にしており、これによって語弊はあるが小乗的な要素が大きい宗派だと感じてしまうのである。













