村上春樹の長編小説の世界で繰り広げられる「非科学的・非合理的」世界に嵌まり込んでいると、なぜか、かつて読んでいたルドルフ・シュタイナーを思い出すのだった。

 

 

シュタイナーによると、日常生活の社会的な人間関係中心の生活は主に「水平軸」世界、しかしその対極に彼が説く「垂直軸(超越軸)」世界があるというのだ。

そして「垂直軸」にて求められるのは霊的次元の「私」なのであると。

 

また、この「私」を構成しているのが、<物質体・エーテル体・アストラル体>に縛られた「自我(私)」なのではなく、その影響から自由になった「自我(私)」なのである。

これが理解できれば、肉体的欲求に縛られない、心理的動揺によっても濁らない知的判断からも自由になった、純粋な霊的実体としての「自我(私)」を知ることになる。

 

例えば、ルドルフ・シュタイナーは、若い頃から「目に見えない世界・超感覚的世界・精神的(霊的)世界」について、集中して霊的観察を行なったそうである。

 

しかし、彼は「目に見えない世界」を理性によらないで体験している「神秘家」とは区別した上で、理性による認識が大切であるとした。

つまり、超感覚的世界を理性的に認識すること。言い換えれば、自然科学の方法で、超感覚的世界を認識すること。そして、自然科学の認識論を無視することなく、精神的(霊的)世界の認識を客観的に保証したのがシュタイナーだった。

 

一方、現在に至る物質主義的自然科学者たち(例えばユング)は、感覚を超えた領域などは存在しないとして、理性による認識がオカルト主義者にできるわけがないと真っ向から否定した。

 

ユングは、個人の書簡では霊的存在を肯定しているが、公にはユング心理学はアカデミズムの本流としてシュタイナーごときは異教的宗教家だとして、本気に相手にしていないのである。

 

この件について、シュタイナー自身が、主著「神秘学概論」の冒頭で

「本書の内容を表すのに用いた『神秘学』という旧来の用語である。こうした言葉は、現代の様々な人々に、直ちに極めて強い拒否的な感情を喚起するきっかけとなるかもしれない。この言葉には、多くの人々に嫌悪を覚えさせるものがあり、嘲笑、憫笑、そして、おそらくは軽蔑すらも喚起させるものがある。人々は、このような名称を与えられる思考方法は、もっぱら安逸な夢想やら妄想三昧やらにもとづいていると考え、その種の『自称』科学の背後に隠されているのは、『真正な科学性』や『純正な認識志向』を熟知している人々ならば、当然のことながら忌避する雑多な迷信の再生衝動でしかないと考えることであろう。」とまで述べているのには驚いた。

 

が、本書を読み進めていくと全く違う世界があることを思い知らされるのだ。