つくるは、36歳の時、上司の新築祝いのパーティーで、大手旅行会社に勤務する38歳の木元沙羅と知り合う。

つくるは彼女の顔立ちが不思議に気に入っており、また彼女の外見も気に入っており、彼女の身につけている服にも好感を持った。

 

4度目のデートで初めで最後の実質的セックスをした。彼女とのセックスは心地よく充実したものだった。彼女は実際の年齢より5歳は若く見えたし、肌は色白で乳房は大きくはないがきれいな丸い形をしていた。射精を終えたあと、その身体を抱きながら優しい気持ちになれた。しかしこれが人との結びつきなのだから受け取るものがあれば、差し出すものがなくてはならないと考えたわけだ。

沙羅と会った時、話の内容は忘れてしまったが、「背中のはっとっする感触」と「不思議な刺激」をずっと覚えていた。

 

二人は、恵比寿のバーの小さなテーブルを挟んで話をした。

セックスのお返しに差し出すものが何もなくてはと高校時代の話をサービスで提供したつもりが思わぬ事態に発展してしまうのである。

 

沙羅は、「名古屋時代の五人組」の話題にむっちゃ食いついてきたため、つくるは、以下のような質問攻めに合うハメになる。

 

沙羅:「おかしいとは思わない。でもその共同体は何を目的にしていたのかしら?」

「ずっと一緒にいて、シロさんや、クロさんには心を惹かれなかったの?」

「あなたが東京に行くことになって、あとの人たちはそのことをどう感じたのかしら?」

「それで今のあなたはどうなの?あなた自身と周りの世界とのバランスはうまくつかめている?」

「どうして自分がそのグループから突然放り出されなくてはならなかったのか、その理由を知りたいとは思わなかったの?」

「あなたの思い当たる節がまるでなかったんでしょう?そういうのを残念だとは思わなかったの?つまらないすれ違いが原因で、大事な友達を無くしてしまったかもしれないことを。努力すれば修正できたかもしれない誤解を修正しなかったことを」

「そのときあなたの感じたキツさは私にもそれなりに想像できる。すぐに立ち直れなかったことももちろんわかる。でもある程度時間が経って、当初のショックが和らげばその時点で何かしら手を打つことはできたんじゃないかしら?だってそんな筋の通らないまま、ものごとをうっちやってはおけないでしょう。それではあなたの気持ちだって収まらないだろうし」

「もし私があなただったら名古屋に留まって、納得が行くまで原因を突き止めるけどな」

「真相は知りたいとは思わなかったの?」

「だから東京に戻って一人で部屋にこもり、目をつぶり、耳を塞いでいたわけね」

 

ここまでの沙羅の疑問から、つくると沙羅の意識の違いがはっきりしてくるのがわかる。

つくるは、真実を知るのが怖くてあえて原因の追求はしなかった、が一方の沙羅は、納得がいくまで真実を追求しなければ気が済まないタイプで二人は水と油のように相容れない気がするのだ。

 

沙羅は、酷い目に会ったつくるを何とか励まそうと「かわいそうな多崎つくるくん」と手をとって慰めた。

 

そしてさらに矢継ぎ早に、「その四人が今どこにいて、何をしているか、そういうことは知っている?」

「知らない」とつくるが」答えると「それは私にはずいぶん不思議なことに思える。つまり、そのときの出来事はあなたの心に大きなショックを与えたし、あなたの人生をある程度書き変えてしまった。そうよね?」

つくるが「自分が他人にとって取るに足らない、つまらない人間だと感じることが多くなったかもしれない。あるいは僕自身にとっても」と話すと、沙羅が「あなたは取るに足らない人間でもないし。つまらない人間でもない』【もうしょぼくれちゃって情けない人ね】(【】は私が沙羅の思いを描いてみました)

 

沙羅は「まだよくわからないな、あなたの頭には、あるいは心には、それともその両方には、まだそのときの傷が残っている。たぶんかなりはっきりと。なのに自分がなぜそんな目にあわされたのか、この十五年か十六年その理由を追求しようともしなかった」としつこく問いただすのだ。

が、つくるは「何も真実を知りたくないというんじゃない。でも今となっては、そんなことは忘れ去ってしまった方がいいような気がするんだ。ずっと昔に起こったことだし、すでに深いところに沈めてしまったものだし」【いつまでもしつこい人ね、いい加減にしてよ】

それに対して沙羅が「それはきっと危険なことよ」と言えば、つくるは「どんな風に?」と返す。

沙羅が「記憶をどこかにうまく隠せたとしても、深いところにしっかり沈めたとしても、それがもたらした歴史を消すことはできない。それだけは覚えておいた方がいいわ。歴史は消すことも、作りかえることもできないの。それはあなたという存在を殺すのと同じだから」【いいかげんに、目を覚ましたらどう?】

 

さすがに言葉のラリーに負けそうなつくるが「どうしてこんな話になってしまったんだろう?」

「この話はこれまで誰にもしたことはなかったし、話すつもりもなかったんだけど」とこれまでに話したことを悔やむのだ。

沙羅は微笑んで「誰かにその話をしちゃうことが必要だったからじゃないかしら。自分で思っている以上に」【面白いお話ご馳走さま、次回もっと食べてみたいわ】

 

攻防戦の後に沙羅を食事に誘ったが、「まだ食欲はないの、悪いけど」と言って帰ってしまった。

沙羅がどんなことを考えているのか、もちろんつくるにはわからない。とあるが、すでに自分の救いようのない弱みを曝け出した以上、これからの恋愛は絶望的であることは間違いないだろう。

つくる:「僕がつまらない話をしちゃったからかな?」

沙羅:「そういうんじゃない。ただ、私は少し考えたいの。だから今日はできればこのまま帰りたい」 

 

つくるは沙羅にメールで誘い、南青山のビルの地下にあるレストランでで彼女と食事をすることになった。

 

いきなり沙羅が「あなたの高校時代の五人組グループの話はとても興味深かった。そういうのは私が経験しなかったことだから」

つくる:「そんなことはそもそも経験しなかった方がよかったのかもしれないけど」

沙羅:「最後に心が傷つけられたから?その気持ちはわかる」【こんな面白い話しといて今さら逃さないわよ】

「でも、たとえ最後につらい目にあって、がっかりしたとしても、その人たちと巡り会えたのは、あなたにとってやはり善きことだったという気がするの。もう奇跡としか言いようがないんじゃないかしら」

「あなたは今では三十代後半の大人になっている。そのときのダメージがどれほどきついものだったにせよ、そろそろ乗り越えてもいい時期に来ているんじゃないかしら?」

 

つくる:「乗り越える?それは具体的にどういうことなんだろう?」

沙羅:「四人のお友達に拒絶されたのか、されなくてはならなかったのかその理由をあなた自身の手でそろそろ明らかにしてもいいんじゃないかという気がするのよ」

つくる:「前にも言ったけど、僕としてはその出来事をできることならそっくり忘れてしまいたいんだ。折角塞がった傷跡をここでまた開きたくはない」【いい加減したら、何度も聞き飽きたのよ】

 

沙羅:「それはただ表面的に塞がっているように見えるだけかもしれないわよ。内側では、血はまだ流れ続けているかもしれない。そんな風に考えたことはない?」

つくる:「でも僕が十六年前に起こったことを四人から説明など聞きたくないと言ったら?」

 

沙羅:「わりに言いにくいことなんだけど、この前会った時、私はあなたのお部屋に行きたくないと言った。覚えているでしょう?それがどうしてだかわかる?」

「あなたのことは好きだと思う、でもあなたは多分心の問題のようなものを抱えている。」

「ここから先が言いにくい部分なんだけど、あなたに抱かれているとき、あなたはどこか他所にいるみたいに私には感じられた。抱き合っている私たちからちょっと離れたところに」【半分出まかせだけど、これくらい言ってやらなくちゃこいつは気がかわらないわ】

「もしあなたがこれからも真剣におつきあいするなら【もうありえないんだけど】、そういう何かに間に入ってほしくない。私の言う意味はわかる?」

「あなたと会って話をするのはいいんだけど、あなたのお部屋には行きたくない。」→ここまで言われたらもう別れるべきだろうに、つくるはホントに弱虫毛虫な奴だ。

 

そしてあろうことか、さらにサービス精神てんこ盛りにして今までの女性遍歴を披歴してしまうのだ。

沙羅:「つまりあなたは十年間にわたって、真剣には心を惹かれなかった女の人たちと、割と長く真剣につきあっていたということ?」

つくる:「そういうことになると思う」(こんな話を大好きな女性に話をすること自体、つくるの頭はおかしいと言えるだろう)

沙羅:「私にはそれは、あまり理屈にかなったことに思えないんだけど」「あなたは心を全開にしなくて済む女性としか交際しなかった」

つくる:「誰かを真剣に愛するようになり、そのあげくある日突然、何の前置きもなくその相手がどこかに姿を消して、一人であとに取り残されることを僕は怯えていたのかもしれない」【この話を聞いた以上、私もそうするつもりなんだけどね】

沙羅:「だからあなたはいつも意識的にせよ無意識的にせよ、相手とのあいだに適当な距離を置くようにしていた。自分が傷付かずに済むように、そういうこと?そして私との間にもやはり同じことが起こるかもしれない」【どう図星でしょ】

つくるは慌てて:「いやそうは思わないな、君の場合はこれまでとは違うんだ。僕は君に対して心を開きたいと思っている。だからこそこういう話もしているんだ」【今さら何の言い訳も通用しないのよ、馬鹿な男ね】

 

「四人の名前を教えてくれたら調べてあげるから、その後四人に会うか会わないかはあなた自身の問題だけど、それとは別にして私は個人的にその人たちに興味があるの」【だからあなたにはやってもらうしかないんだけど、あなたにはもう興味はないの】

 

しばらくして、沙羅から銀座で少しだけ会いたいと携帯に連絡してきた。

「今日、少しでいいからあなたと会える?私は七時から会食の予定が入っているんだけど、その前だったら時間を空けられる。」

待ち合わせの四丁目の喫茶店につくるは沙羅からもらったネクタイを締めて行ったところ、彼女はにっこりと笑ってくれた。【でも、今さら何をしても私の気持ちは変わらないのよ】

沙羅は絶妙な言い訳をして、これから本命の男と会うためのミニスカートと淡いコーヒーブラウンの夏物スーツに合わせた色の細かい模様の入ったストッキングというエロチックなファッションで着飾っていたのだ【決してつくるのためにではなく】。

 

 

沙羅の用事は、つくるに彼女が調べた名古屋の四人の近況と居場所の情報を手渡すことだけだった。メールでもよかったのだろうが、あえてつくるに会ったのは、メールでは伝えきれない深刻な内容を伝える必要があり、それによって、つくるの行動を強く促すためだった。

 

沙羅:「四人のお友だちの近況と居場所は調べておいたわ。居場所はわかったけど、その中には知らなければよかったというとあなたが思うような事実が含まれているとしても彼らと対面する決心があなたにできているかどうかということが知りたいんだけど。」

 

「レクサスディーラーでトップセールスマンのアオさんと怪しいセミナー屋で成功しているアオさんは情報がオープンだったので容易かったわ。シロさんに関しては、情報の収集は困難であると同時に、容易くもあった。過去の新聞記事が必要な情報を提供してくれたが、6年前に亡くなっていた。クロさんは現在フィンランドに住んでいる、ヘルシンキのアパートの住所と電話番号があるのであとは自分で何とかして」

 

調べた自分の用事を伝え終わると沙羅は、「そろそろ行くわ」とあっさりとつくるに別れを告げた。

そしてつくるは「もちろん彼女には彼女の生活がある。彼女の生活のほとんどの部分は、彼の知らない場所で送られ、彼とは関わりないものごとで成り立っている。」と情けない思いに耽る、それが最後の別れにつながる思いとも知らずにだ。

 

つくるが名古屋でアオとアカにあって、自分がグループからなぜ遮断されたかの理由とシロが殺された事実の内容に衝撃を受けて帰ってきた。

沙羅の携帯は留守電だったので名古屋から戻った旨のメッセージを残したが、その日11時過ぎまで起きて待っていたが連絡はなかった。そして翌日の昼に電話があり待ち合わせをすることになった。携帯を切った後、つくるの胸に微かな異物感が残っていることに気がついた。それは、沙羅と電話で話す前にはなかった感触だったが、昼食の残りを食べる食欲はもう無くなっていた(不吉な兆し)。

 

約束した広尾の小さなビストロで、沙羅は早速興味深いつくるの報告に耳を傾けた。今回もところどころで質問攻めが待っていた。

沙羅:「シロさんがあなたに薬を飲まされてレイプされたとみんなに言ったのね?」

   「とてもリアルにその細部を描写した。ひどく内気な性格で、性的な話題をいつも避けていたにもかかわらず」「そしてあなたにには二つの顔があると彼女は言った」

つくる:「『表の顔からは想像できない暗い裏の顔がある』と彼女は言った」

沙羅:「例えばあなたと彼女との間に、何か特別な親密さが生じる瞬間があったとか」

つくる:「そういうことが起こらないように僕はいつも意識していたから」

沙羅:「いつも意識していた?」

つくる:「彼女を一人の異性として意識しないように努めていたということだよ。だから二人きりになる機会をなるべく作らないようにしていた」

沙羅:「グループの他の人たちも同じように注意を払っていたと思う?」

つくる:「男女の関係をグループの中に持ち込まないようにしようというのは、僕らの暗黙の了解になっていた。それははっきりしていた」

沙羅:「でもそれってやはり不自然なことだと思わない?」

「あなたたちはそのサークルの完璧性の中に閉じ込められていた。そういう風に考えられない?」

つくる:「それは認めるけど、僕らは喜んでその中に閉じ込められていた。そのことは今でも後悔していない」

沙羅:「とても興味深い」

また、アカから聞いた、殺される半年前のシロに彼が会った時の話も沙羅の注意を引いたのである。

沙羅は注文したデザートを欠かさず食べながら、美しい体型を保ち続けていることに、つくるは感心しないわけにはいかなかった。

 

食事の後、今回はどういう風の吹き回しか沙羅が部屋に一緒に来てくれた、あんなに嫌がっていたのに、名古屋にちゃんと行ってきた、つくるへのご褒美かもしれないな。

そして、二人はつくるの部屋で抱き合った。もう一度沙羅と抱き合えることを、彼女がその機会をもう一度与えてくれたことを、つくるは嬉しく思った。

二人はソファの上でお互いの身体を愛撫し、それからベッドに入った。

 

彼女はミントグリーンのワンピースの下に、黒いレースの小さな下着をつけていた。

「これもお母さんに買ってもらったの?」とつくるは尋ねた。

「馬鹿ね」沙羅は言って笑い「自分で買ったのよ。もちろん」と。

 

 

しかし待ちに待った機会に、情けないことにつくるのチンポが役に立たなかったのだ。役に立たなくなったのは、つくるにとっては生まれて初めての体験だった。

沙羅は「そういうの気にしちゃ駄目よ、このまま私をじっと抱いていて。余計なことは考えずに」とつくるを励ましつつ、「ひょっとして、あまり期待しすぎたのかもね。私のことを真剣考えてくれるのは嬉しいけど」

二人はそのあともベッドの中で裸で抱き合い、時間をかけて愛撫を続けたが、つくるが十分な硬さを回復することなかった。

【私の個人的見解では、シロがこの部屋でレイプされたと主張したという話が、つくるのトラウマになっており、今回の大事な場面で一時的不能になったのではないかという可能性もあるのではないかと考えております】

 

 

つくるは駅まで沙羅を送る道すがら、うまくことが運ばなかったことを謝った。

「そんなことはどうでもいいのよ、本当に。だから気にすることはない」と沙羅は優しく言った。そして彼の手を握った。小さな温かい手だった。

「今回いくつかの事実が明らかになったおかげで、むしろ逆に、残された空白部分がより大きな意味合いを持つようになったということかもしれない、一時的だけど開けるべきじゃない蓋を開けてしまったのかもしれない」

「解決に向かって前に踏み出していることが大事なことよ。そのうちに空白を埋めるピースが見つかるかもしれない」

つくる:「長い時間がかかるかもしれない」

沙羅はつくるの手を握り「急ぐことないの、ゆっくり時間を掛ければいい。私が知りたいのはその間、私と付き合ってくれる気持ちがあるのかということ」

つくる:「もちろん、君と長く一緒にいたい」

沙羅:「本当に?」

つくる:「嘘じゃない」

沙羅:「じゃあかまわない。時間はまだあるし、私は待てるから。とりあえず片付けなくてはならないことも、私にはいくつかあるし」

つくる:「とりあえず片付けなくてはならないこと?」(まさか他の男との関係をどう始末するかということなのかもしれないが、この時点ではまだ沙羅と付き合っている年配の紳士のことをつくるは知らないので)

沙羅からは答えはなく、謎めいた微笑みを浮かべるだけだった【不適な笑いは、つくるから逃げる気満々という意図を感じる】、そしてフィンランドに早く行ってクロに会えと薦める。そうすれば彼女が大事なことを教えてくれる予感がすると言った。

 

 

休暇をとったつくるは沙羅に電話をかけヘルシンキ行きの具体的な日程を決めた。クロにアポも取らずにヘルシンキまで行くことに「私は常軌を逸しているというより、むしろ『大胆』という言葉を使いたいけど」

「じゃあ、幸運を祈っている「ねえ、その前に一度会う?週明けにはロンドンから戻ってくるけど」と誘ってくれた。

つくるは「いや、君には会いたいけど先にフィンランドに行くと」前回の不能事件尾を引いているかのようについ断ってしまう。

沙羅:「とにかく、今回そうした方がいいとあなたは感じるのね?それが勘であるにせよ、何であるにせよ」

 

そして「スター・ウオーズはみたことある?ならばフォースとともに歩みなさい」と頑張ってねのはげましの言葉でつくるを送り出すのだった。

 

ここまでの状況で、私の穿った見方だが、沙羅という女は、つくる自身には大人になってない男なので興味はなく、彼に自分の身体を提供してでも、5人組の話の結末を知りたいという好奇心に囚われた人なのかなという可能性まで消しきれないような気がした。

それは、つくるが三十代後半の大人になっているのに「高校時代に受けたダメージがどれほどきついものだったにせよ、そろそろ乗り越えてもいい時期に来ているんじゃないかしら?そして四人から拒絶された理由をあなた自身の手でそろそろ明らかにしてもいいんじゃないかという気がするの」とまるで精神科医のように語りかけたことが何よりの証なのです。

 

しかし、沙羅はその後、表参道通りに面したガラス張りのカフェにいたつくるに、中年の彼氏と歩いているところを目撃されてしまうのである。

沙羅はこの前に会った時と同じミントグリーンの半袖のワンピースを着て、薄茶色のパンプスを履き、青山通りから神宮前に向けて緩やかな坂を下っていた。

彼女の隣には中年の男がいた。がっしりした体格の中背の男で綺麗に整えられた髪には、いくらか白いものが混じっており、50代前半に思われた。感じの良い顔立ちで、表情には、その年代のある種の男たちが身につけている無駄のないもの静かな余裕が伺えた。

二人は仲良さそうに手を繋いで通りを歩いていた。彼らはつくるのすぐ前をゆっくり歩いて通り過ぎたが、沙羅は彼の方には全く目を向けなかった。彼女はその男と話をするのに夢中で、周りの物事はまるで目に入らないようだった。男が短く何かを言い、沙羅は、歯並びがはっきり見えるくらい口を開けて笑っていた。彼女は顔全体で大きく笑っていた、しかしつくると一緒にいる時、それほど開けっぴろげな表情を顔に浮かべたことはなかった。彼女がつくるに見せる表情は、どのような場合であれ、いつも涼しげにコントロールされていた。

 

フィンランドから戻ったつくるは沙羅の住まいに電話をかけてみたが、留守電モードだったが、留守電には何も伝言を残さなかった。

沙羅から、夜の9時前に電話があった。「ねえ、今日の午後1時くらいにうちに電話をくれたのは、あなたよね?」

つくる:「うん」

沙羅:「でもメッセージは残さなかったのね。少なくとも自分の名前くらいは残せるでしょう」

 

つくるからフィンランドに行ってくるだけの価値があったと言われ沙羅は「よかった。それを聞いて嬉しい」短い沈黙があり、それは風向きを測るような、含みのある沈黙だった。

そてから沙羅は言った「ねえ、あなたの声の感じがいつもと少し違うような気がするんだけど、私の気のせいかしら?」と訝しげ感想を述べた。

 

つくる:「今回の件では、いろいろとありがとう。君のおかげだ」

沙羅:「どういたしまして」

再び短い沈黙があり、つくるは注意深く耳を澄ませたがそこにあった含みはまだ解消されていなかった。

 

そしてつくるは決心して切り出した「ひとつ君に聞きたいことがあるんだ、こんなことは言わないでいた方がいいのかもしれない。でもやはり、自分の気持ちに正直になった方がいいような気がする」

沙羅:「いいわよ、もちろん自分の気持ちに正直になった方がいいと思う。なんでも聞いて」

つくる:「君には僕のほかに誰か、つきあっている男の人がいるような気がするんだ。そのことが僕の心に前からひっかかっている」

沙羅:「気がする? それは、ただなんとなくそういう感じがするということ?」

つくる:「そうだよ、そしてそれについて君に素直に正面から尋ねた方がいいだろうと思った。それで君には誰か他に好きな人がいるのかな?」

彼女は黙った。(肯定したということだろう)

 

つくる:「もしたとえそうだとしてもそれをとやかく言っているわけではないんだ。君には僕に対する義務なんてないし、僕には君に何かを要求する権利もない。僕としてはただ知りたいだけなんだ、自分の感じていることが間違っているのかどうかを」

沙羅:「義務とか権利とか憲法改正論議みたいで、そんな言い方はしないでくれる」

つくる:「わかった、僕の言い方が悪かった、でも僕はかなり単純な人間なんだ。こんな気持ちを抱えたままでは、うまくやっていけないかもしれない」

沙羅はまた少し黙り、そして静かな声で言った:「あなたは単純な人間なんかじゃない。自分でそう思おうとしているだけよ」

 

つくる:「そうかもしれないが、僕はとくに人間関係に関しては、これまで何度か傷ついてきた。できればもうこれ以上そういう思いはしたくないんだ」

沙羅:「わかった、私もあなたに対して正直になりたいと思う。でもその前に少し時間をもらえるかしら、そうね三日くらい。そしてその日に食事を一緒にしましょう。そしていろんなお話をしましょう。正直に、それでいい?」

 

つくるは同意したが、辛抱できずに沙羅に自分の気持ちを伝えるために電話してしまうのだ。

つくる:「こんな時間に申し訳ない、でもどうしても話をしたかったんだ」

沙羅:「こんな時間って、いったいどんな時間?」

つくる:「午前四時前だよ」

沙羅:「やれやれ、そんな時間が実際にあったことすら知らなかったな、でどんなことかしら?」

つくる:「君のことが本当に好きだし、心から君を欲しいと思っている」

沙羅は小さく咳払いし、吐息のようなものを漏らした

沙羅:「私もあなたのことがとても好きよ、会うたびに少しずつ心を引かれていく。だからあと三日だけ待ってくれる」

沙羅は電話の最後に「おやすみ、安心してゆっくり眠りなさい」と言って切った。

 

さらに沙羅と合う前日、唐突に彼女に電話し、コール音の途中で切ってしまい、折り返し沙羅が電話してくれるが取らずに終わってしまう。

 

思うに、つくるが「君には誰か他に好きな人がいるのかな?」と尋ねられた沙羅が黙り込んでしまうところがある。

そこで、多分つくるは、沙羅にこれは勝手に男がいるなと思い込み、「義務とか権利などの言葉」を交えて強気で語り出す。

沙羅としてはまだ他の恋人の存在を認めたわけではないのに、なんでこの男は暴走して聞いてくるのか内心穏やかではないだろう。

そこで、つくるとはこれ以上付き合えないと最後の電話で伝えるのがいいと思ったのではないでしょうか、そもそも3日も設けることもなかったと思うのですが、逆につくるの自滅を待つ時間として設定したのかもしれないですね。