10/8の東京新聞のコラム・ぎろんの森を読んだ。

 

東京新聞の発行元である中日新聞社の前身である二つの新聞社があり、それぞれ自由民権と議会中心主義を掲げて言論活動を展開してきたそうである。

 

そこでコラムの内容だが、安倍の国葬を閣議決定のみで決定したことは議会中心主義をまず蔑ろにしている。

そして、国葬の際に菅が友人代表として読み上げた弔辞の結び(ここは二度も繰り返している)の歌の由来を知ると反動政治家の共通点を知ることができます。

 

これは、明治の元勲・山縣有朋が朝鮮半島で暗殺された伊藤博文を悼んで詠んだもので・・・

<かたりあひて 尽くしゞ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ>

はまさしく、安倍を突然失った想いを山縣に重ねたわけでしょう。

しかし、そもそも山縣有朋の政治姿勢には、統一教会にどっぷり浸かった安倍同様に違和感があるのです。

 

山縣は、明治期に軍人から政治家となり政党内閣を拒絶し、政党からは独立した超然主義を主張。そして、国民の自由と権利、国会開設を主張する自由民権運動を弾圧しました。

 

 

山縣有朋が軍人のまま日本の政治を右傾化させていく過程について、Wikipediaを参考にして少々長いですが紹介しておきます。

 

山縣は、西周に起草させた『軍人訓誡』(軍人勅諭の原型)を陸軍へ配布して、軍紀の引き締めを図った。また、」西郷従道の提案により参謀本部が成立することとなった。その後、大山巌を参謀次長とする参謀本部が編成され、陸軍卿を辞任した山縣が参議のまま初代参謀本部長となった。この頃参謀局に在籍していた桂太郎は、山縣の腹心となっていたのである。

明治13年(1880年)には山縣と親しい大山巌が陸軍卿となり、陸軍の全権を山縣が握っていると評される状態となった。

 

明治15年(1882年)1月に軍人勅諭を制定したこと。

明治17年(1884年)の華族令制定の際に華族に列して伯爵に除され、大山、桂、川上操六らと陸軍の改造・拡充を計画し、同年2月に大山陸軍卿が欧州視察に向かった後は、内務卿兼任のまま「参謀本部長」を勤めた。

反対派がいなくなり陸軍改革も桂らの手で着々と進んだことにより、陸軍は山縣を中心とする派閥が形成されていった。

山縣は積極的に人材登用を行い、桂をはじめ児玉源太郎岡沢精など長州藩出身者や中村雄次郎木越安綱ら他藩出身者も軍部へ取り立て、派閥を拡大していった。

軍拡と組織体制も整い、明治21年に師団への変更と参謀本部の改編が行われ、参謀本部は翌明治22年に参謀総長を長とする軍事組織へと改編が完了、のちに同様の組織として海軍軍令部も作られ陸海軍双方の参謀本部が完成した。

ただし、平常時で軍政に関わる事柄、特に予算関係は陸軍大臣が内閣と協議する慣例で、軍の中心は「陸軍省」にあり、参謀本部は完全に陸軍省から独立した部署には成りえていなかった

内務大臣として地方自治の形成に尽力し、地方財政の対応策として明治の大合併を推進し、明治21年末から明治22年末までに約7万から約1万5,000と町村の数が激減するほどの合併を実行したが、地方に妥協し実情に合わせて配慮したため、旧町村と新町村の財政が一本化されない、新町村に吸収されたはずの旧町村の区域が名前を変えて残り、実際の町村は分離されたままという中途半端な結果に終わったのは山縣の失敗だった。

山縣が地方自治に熱心に取り組んだ理由は、日本国民に政治の仕組みを地方政治を通して理解させること、および急進派や過激思想(特に自由民権運動)を政治から遠ざけ、穏健派を政治に迎え入れる意図があった。自治を促しつつ国から地方へのコントロールも行える仕組みにも取り組み、国から地方への行政執行命令と国税徴収を通しての規制強化で、中央と地方の関係を構築させようと試みた。ただし、のちに山縣は方針を変え、府県郡制施行で知事と郡長の権限を拡大、山縣系官僚が郡を通して町村を統制したため、軍と並んで地方も山縣の派閥の根拠地となっていった

明治22年(1889年)12月24日、内閣総理大臣(第3代)に就任(第1次山縣内閣)した。特に功労が大きいという明治天皇の特旨により、山縣は現役軍人であり続けることを許されたのだ。

明治23年(1890年)6月7日には、西郷隆盛以来となる「陸軍大将」に昇進し、7月1日第1回衆議院議員総選挙を迎え、11月29日に開会した日本最初の帝国議会に臨んだ。首相在任は1年5か月と短かったが、無事に第一回帝国議会を終わらせたことで山縣は政治家として名を上げ、伊藤に匹敵する藩閥実力者としての地位を確立した。第1次内閣の他の功績は府県郡制公布、明治23年10月30日教育勅語発布が挙げられる。

第2次伊藤内閣で自由党の板垣退助が内務大臣となったことは内務官僚の反発を生み、明治28年11月から29年7月にかけて山縣閥が形成が促進されていった[

8月の第2次伊藤内閣総辞職後にできた第2次松方内閣は、清浦奎吾法相をはじめとする山縣閥の官僚とその同調者が4人閣僚入りしている。

明治31年(1898年)1月の第3次伊藤内閣には山縣系の芳川顕正外相と桂太郎陸相が入閣している。また、1月20日に山縣は大山・西郷らとともに軍人最高の地位である「元帥」の称号を受け、終身現役軍人になった。しかし誤解を悟った明治天皇は、山縣に組閣を依頼した。山縣はすでに大隈らに伝わっている以上撤回は困難であり、天皇に累が及ぶとして辞退した。こうして成立した第1次大隈内閣はほとんどの閣僚を憲政会党員が占める政党内閣となったが、桂太郎は引き続き陸相を務めた。山縣は政党内閣の成立を「明治政府の落城」と嘆いた。

軍では山縣閥形成が進み、山縣は終生現役の元帥として、軍拡に必要な財源確保のため憲政党を味方につけた。

 

 

 

12月16日、山縣内閣は再度衆議院議員選挙法改正案を提出、貴族院では更に保守的なものに修正された[。記名投票を秘密投票に改めた。

3月10日 治安警察法を制定し、政治結社・政治集会の届出制および解散権の所持、軍人・警察官・宗教者・教員・女性・未成年者・公権剥奪者の政治運動の禁止、労働組合加盟勧誘の制限・同盟罷業(ストライキ)の禁止などを定めた。

5月19日には陸軍省・海軍省の官制を改正し、軍部大臣は現役の中将以上に限ることとした(軍部大臣現役武官制政党内閣が出来た際にも、軍の主導権を確保するためのものであった。

 

山縣は後継の首相に直系である桂太郎が奏薦されるよう慎重に誘導し、6月10日に第1次桂内閣が成立した。桂内閣は山縣系が10人中6人を占める山縣の影響力が強いものとなった。

明治34年(1901年)1月30日には山縣らが協力した日英同盟が成立している。

1906年10月、元老として「帝国国防方針案」を明治天皇に上奏した。日露戦争後の日本の国防構想を、側近の田中義一歩兵少佐に起草させたもので、山縣の案は軍事官僚組織の検討により公的性格を帯びることとなった。

 

↓田中義一の過去ブログ