さて、敗戦直後は、アメリカの世論が戦時中捕らえられていた共産主義者ら政治犯の釈放は日本の民主化には不可欠で、彼らが自由になってこそ日本軍国主義復活の阻止に役に立ちアメリカにとっても有益であるという風潮が非常に強かった(それは、現在でも変わらず米軍基地を日本全国に置いておかないとアメリカは不安でしょうがないということで信用されていない日本は二度と独立国にはなれないのかもしれませんね)。

 

そのため、日本独自の憲法草案を一蹴し自らの憲法を押し付けて日本の民主化を推進したGHQの一部局である民政局GS(ホイットニー准将やケーディス大佐)により、戦前捉えられていた共産党指導者らを解放するよう東久邇内閣で外相をしていた吉田に迫ったが到底承服しかねると拒んだためGHQから内閣解散に追い込まれてしまった。

 

あとを継いだ幣原内閣により徳田球一をはじめとする日本共産党幹部が刑務所から解放されてきたのを見て吉田は地団駄を踏み許しがたい行いだと苦々しく感じていたそうだ。

 

 

さらに1945年12月には労働者の団体交渉権を認める「労働組合法」も彼らGHQの圧力で国会を通過して、幹部が復帰して息を吹き返した日本共産党は労働組合への支援に力を発揮していったためその勢力は急速な拡大を遂げることになるのです。

1945年末には約38万5000人だったのが、1948年半ばには670万人にまで膨れ上がっていたそうです。

 

 

残念ながら彼らは烏合の民でした。日本にはそもそも市民社会の理念は根付いておらず(先進国での欧米のような市民革命は経験しておらず、日本人は元来市民精神的未成熟な烏合の民と言えるだろう)、自ら権利を勝ち取った歴史もなく、常に他者から与えられてきた権利を当たり前のように使用するしか脳のないのが日本の民と言えるのでしょう。

 

労働組合法により日本の労働者の発言権は大いに向上したわけですが、活動が行き過ぎているのがわからなくなる(連合赤軍のように行き詰まる)。

それが1946年5月の世田谷でのデモ隊が宮内省に入り込み、皇居の台所の潤沢な食料を目ざとく見つけ、翌週には皇居前広場で「食料メーデー」を繰り広げた。参加者の中には天皇を侮辱するプラカードを掲げる者までいたのである。

 

 

これを知ったマッカーサーは態度を硬化させ運動の背後に反天皇制の思想を持つ共産党員がいることを察知していた。

 

 

そこでマッカーサーは次のような警告を発した「民主的な手段による合理的な自由は全て許可されて来た。しかし規律を欠いた分子が今開始しようとしているような暴力の行使は今後、その継続を許されないだろう」と。

 

そして、1947年300万人の労働者を代表する日本共産党系の労働組合を中心にした大規模なゼネストを社会が混乱することを危惧したマッカーサーは中止させているのです。

 

 

さて、アメリカでは、トルーマン政権下、共産主義国の勢力拡大を阻止するという「トルーマン・ドクトリン(封じ込め政策)を推進し、自国への共産主義の浸透防止に躍起になっていた。

 

 

1948年、日本では米陸軍長官ケネス・ロイヤルは日本への経済的負担軽減と同時に日本を極東の工場に仕立ててアジアにおける反共産主義の防波堤にするという趣旨の演説を行っていた。

 

そして、その実現のために公職追放となっている戦中・戦前の実業界の指導者らを復帰させることにしたのである。

 

また、同年10月アメリカ国務省のジョージ・ケナンにより「対日占領政策の(アメからムチへの)転換」がアメリカ政府内で公式に承認された。2ヶ月後の12月には米政府が日本政府に対して「経済安定9原則」を提示し、デトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジが駐日アメリカ大使として送り込まれて来ました。

 

それは、彼らGHQ(といっても民主化を進めた民政局の力がなし崩しとなっていったしGHQ内部での権力闘争にも負けたと言えるでしょう)と共産党勢力との蜜月が長続きはしなくなることを意味していたのです。