中曽根康弘は、戦時中に海軍短期現役制度で海軍主計将校に転じた。

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そして終戦後には内務省の官僚になる。

敗戦後、反吉田茂勢力として、自主憲法制定や再軍備を標榜し、長く野党議員として過ごしている。右翼の大物と呼ばれ暴力団やCIAと深い関係にあった児玉誉士夫はキングメーカーとして暗躍し反吉田茂対策に奔走していた。自ずと中曽根とも親密な関係を持ていたと思われる。

1954年3月2日、中曽根一議員でありながら原子力研究開発のための予算を上程、これを通した(具体的には科学技術研究助成費のうち、原子力平和的利用研究費補助金が2億3500万円、ウラニウム資源調査費が1500万円、計2億5000万円。

これが現在に至るまでの自民党の原子力是認につながっているのである。
まさに、日本の原発生みの親的存在であると言える。

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アメリカに原子力燃料を売ってもらおうと、戦時中軍需物資の調達屋だった児玉にも手を回してもらっていたようだが日本の核による再軍備を危惧したアメリカは渋り続けた。

それから60年後、日本は核(原子力の平和利用)汚染を経験、今や全国に点在する原発の脅威に怯えているのである。

九州を取り囲む川内・玄海・伊方の原発は今や風前の灯びのような状態でマスコミ報道でさえ一切なされていない(政府の報道管制の徹底のおかげなのか)のが現状である。