【満州編】


前編にて岸信介のドイツの産業合理化運動の調査報告書について触れましたが、政府以外にも強い関心を抱いたのが国家主義色を日ごとに増大させていた軍部でした。


特に陸軍中央と関東軍が岸の国家統制論および彼の卓抜した行政手腕に熱い視線を注いでいくことになった。昭和10年前後から商工省から岸を引き抜き満州国の経営にあたらせようと関東軍が工作を施していました。


一方、岸も満州にて自らの野心を拡大しようと、腹心の部下である椎名悦三郎を自身が渡満する3年も前に地ならしのため満州に送り込んでいました。


満州で岸を迎えたのが当時関東軍参謀長の板垣征四郎(過去ログ①)であった。板垣は満州の産業経営の全権を岸に委ねたのです。


1936年(昭和11年)10月、岸信介は満州国国務院実業部総務司長に就任した。


1937年(昭和12年)7月には産業部次長に就任、12月には鮎川義介率いる日産コンツエルンの満州誘致を実施した。


1939年(昭和14年)3月には 総務庁次長に就任。この間に、ソ連やドイツに影響を受けた計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施、満州経営に辣腕を振るうのである。


同時に、関東軍参謀長(昭和123月昇進)であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の大物「弐キ参スケ」の1人に数えられた。


特にこの3年間の満州時代に岸は、将来の政治家になるべく変貌を遂げるための盤石な基盤を作り上げた。関東軍の歴代参謀長である板垣征四郎・東條英機、参謀副長・石原莞爾、参謀・片倉衷、竹下義晴らの軍人との親交を深めることで以後戦時体制下で自身の権力拡大を容易にした。


↓岸信介(左)と東條英機(右)

 大学にてキャリア支援を模索するKのブログ-kish

岸は満州の表舞台では産業開発5ヶ年計画遂行を、その裏では計画遂行の巨大利権に絡み莫大な政治資金を獲得していくのである。そしてその莫大な資金をもとに同僚の官僚はもとより民間人(特に満州浪人や右翼壮士たち)にカネで結びつきを図っていました。


特に顕著な事例が甘粕正彦(過去ログ②)との関係であります。

甘粕はイギリスが甘い汁を吸っていたアヘン密売にかかわり莫大な収入を得て中国大陸で派手な謀略諜報活動を行いました。この甘粕と親密な関係にあった岸は最終的に彼を国策会社「満映」の理事長にまで据えるのです。アヘン取引には満州国政府もかかわり関東軍(機密費獲得)とともに巨額の資金を得ていたのです。この当時、岸は関東軍、とりわけ参謀長の東條英機とアヘンにより親密な関係構築をして将来に備えていたわけです。


そして、岸が満州から日本への帰路、「満州は私が描いた作品だ」とまで豪語したのです。帰国した日本では、東條英機とともにあの太平洋戦争で思うがままの辣腕を振るうのでありました。


過去ログ①:板垣征四郎 http://ameblo.jp/valtan56/entry-10871081606.html


過去ログ②:甘粕正彦 http://ameblo.jp/valtan56/entry-10757266929.html


(参考 ウイキペディア)