近衞 文麿(明治24年(1891年)1012 - 昭和20年(1945年)1216日)。五摂家の近衞家の第30代目当主。後陽成天皇の12世孫にあたる。3度にわたり内閣総理大臣に指名された。



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アドルフ・ヒトラーに憧れがあったようでヒトラーの格好をしばしば行っており、ちょび髭を生やしてヒトラーに似ていると揶揄されることがあった。そのためもあってか、次女の結婚式前に催した仮装パーティーではヒトラーに扮し物議をかもしている。


また、ヒトラーのナチス党を参考にして新体制運動を唱え、第2次近衞内閣の治世下にて大政翼賛会を設立した。さらに、日独伊三国軍事同盟や日ソ中立条約を締結した。


首相就任直後に、「国内各論の融和を図る」ことを大義名分として、治安維持法違反の共産党員や二・二六事件の逮捕・服役者を大赦しようと主張して、周囲を驚愕させた。この大赦論は、荒木貞夫(過去ログ①)が陸相時代に提唱していたもので、かれ独特の国体論に基づくものであったが、二・二六事件以降は皇道派将校の救済の意味も持つようになり、真崎甚三郎(過去ログ②)の救済にも熱心だった近衞は、首相就任前からこれに共感を示していた。


1937年(昭和12年)77日に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(支那事変)が勃発。79日には、不拡大方針を閣議で確認。711日に停戦協定が締結されたにもかかわらず、近衛は、報道陣の代表と政財界の代表者らを首相官邸に招き、内地三個師団を派兵する「北支派兵声明」を発表、翌日には報道内容が世界中を駆け巡り、日本が好戦的な国だという印象を世界に与えることになる。


さらに近衛は日本の全体主義体制確立へと突き進む。海軍による南京に対する渡洋爆撃を実行し、同時に、「今や断乎たる措置をとる」との断固膺徴声明を発表。817日には、不拡大方針を放棄すると閣議決定。


国内では、10月に国民精神総動員中央連盟を設立、内閣資源局と企画庁が合体した企画院を誕生させ、計画経済体制の確立に向けて動き出した。11月の日独防共協定締結後には、大本営を設置する。125日付の夕刊では、国民の一致団結を謳った「全国民に告ぐ」という宣言文を出させている。



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昭和13年(1938年)111日には、御前会議で陸軍参謀本部の主導により「支那事変処理根本方針」が決定され、ドイツの仲介による講和(トラウトマン工作)を求める方針だった。しかし、近衛は114日に和平交渉の打切りを閣議決定し、116日に「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の声明(第一次近衛声明)を国内外に発表し、講和の機会を閉ざし、5月には現地日本軍が徐州を占領してしまう。


さらに近衛は、支那事変のためとして、4月に国家総動員法電力国家管理法を公布、55日に施行し、経済の戦時体制を導入、日本の国家社会主義化が開始された。

昭和18年(1943年)から、近衞とそのグループは、やがて「近衛上奏文」につながる軍部赤化論や共産革命脅威論を唱え始める。発端は皇道派軍人の真崎甚三郎や小畑敏四郎たちであった。


近衞は敗戦後、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーを訪ね、持論の軍部赤化論を説いて、開戦時には天皇を中心とした封建勢力や財閥はブレーキの役割を果たした、と主張し、皇室と財閥を除けば日本はたちまち赤化すると説く。


近衞の戦争責任に対する態度は、近衞自身の責任をも全て軍部に転嫁するものであるとして、親交のあった重光葵からも「戦争責任容疑者の態度はいずれも醜悪である。近衞公の如きは格別であるが…」と厳しく批判された。


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昭和天皇も「どうも近衞は、自分に都合の良いことを言っているね」と呆れ気味に語っている。井上成美海軍大将は、近衛文麿について以下のように言っている。 「あんな、軍人にしたら、大佐どまりほどの頭も無い男で、よく総理大臣が勤まるものだと思った」と。

しかし、自分の最後まで憧れのヒトラーと同じ自殺の道を取るとは、最後まであきれた男である。


過去ログ①:荒木貞夫http://ameblo.jp/valtan56/entry-10785094856.html


過去ログ②:真崎甚三郎http://ameblo.jp/valtan56/entry-10815012499.html


(参考 ウイキペディア)