天台宗の寺院で本尊は薬師如来。山寺(やまでら)の通称で知られ、古来より
悪縁切り寺として信仰を集めてきたそうだ。「山寺の和尚さんが 毬は蹴りた
し毬はなし・・・」てこのお寺かな? 違うにしてもその寺の和尚さんのストレ
スはかなり高かったんでしょうね。
立石寺の創建について、寺伝では860年に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師
)が開山したとされているが定かではなく、「開山」を円仁、「開祖」を安慧(安慧
は円仁の跡を継いで天台座主となった僧)という説もあるが、でも・・・
860年には、円仁は当時としては高齢の60歳台で、しかも天台座主の高位
にあった。したがって、この時期に円仁が実際に今の山形県に出向いて
立石寺を建立したということは、年齢と地位の両面から、文字通りの史
実とは考えがたく、円仁の意を受けた安慧らによって9世紀半ば頃から徐
々に寺観が整えられたとみるのが穏当であるというのが濃厚である。
鎌倉時代には幕府の保護と統制を受け、関東御祈祷所となり寺は栄えたが後
に兵火により焼失し、13世紀中頃には幕府の政策により禅宗に改宗とな
った。
1521年、寺は天童頼長の兵火を受けて一山が焼失した。この焼き討ちの際に
、比叡山延暦寺から分燈されていた法燈も消滅し、再度、分燈することとなるが
、1571年の織田信長による比叡山焼き討ち後の再建時には、立石寺側から
逆に分燈されることとなった。
なんだか天台宗にかかわると叡山、平泉寺、そしてこの立石寺とすべて全
山焼き討ちの目をみているが、これも何かの因縁か、悪縁切りの寺という
が悪縁がつながっているようにも見えてしまうのは穿ちすぎか?
1689年に松尾芭蕉が旅の途中で訪れ、その時のことが『おくのほそ道』に書か
れている。また、当地で名句「閑さや 巖にしみ入る蝉の声」を詠んでおり、参道
に句碑がある。