『絶望を希望に変える経済学』 アビジット・V・バナジー & エステル・デュフロ著 村井章子訳 (2020年4月17日第1刷)

 

 

 

第5章 成長の終焉?① (第5章は①から④まで)

 

 

 

成長は1970年代前半のどこかで終わった。もう戻って来ない。ロバート・ゴードンは著書『アメリカ経済――成長の終焉』 [邦訳:日経BP] でそう強固に主張する。

 

1970年代前半と言えば、第一次石油危機があった時期だ。1973年にアラブ石油輸出国機構が石油禁輸を発表して世界に激震が走った。禁輸が1974年3月に解除されるまでに原油価格は4倍に高騰。石油危機後の欧米先進国は、スタグフレーション(インフレを伴う景気後退)の10年に苦しむことになる。低成長はいずれ高度成長に転じるものと期待されたが、ついにはそうはならなかった。

 

政治指導者は、自国の成功をたった1つの物差しで測ることに慣れ切っていた。それは国内総生産(GDP)である。この慣行はいまもさして変わっていない。あの1970年代の決定的な瞬間はいまなお頻繁に話題に上る。何がまちがっていたのか。成長を取り戻し、維持することはできるのか。中国は成長の終焉とは無縁なのか、等々。

 

経済学者はこれらの問いの答を探すのに忙しい。先進国経済の成長を加速するにはどうすればいいのか、自信を持って言えることはあるのだろうか。これほど多くの論文や本が書かれたこと自体、経済学者には打つ手が何もないことの証ではなかろうか。いやそもそも、成長の終わりを心配する必要はあるのか。

 

 

■ 栄光の30年

第二次世界大戦の終わりから石油危機までの30年間、欧米先進国の経済成長は史上最高のペースを記録した。1870~1929年には、アメリカの1人当たりGDPは年1.76%増というささやかな数字で推移していた。だが1950~73年には2.5%に達する。年成長率が1.76%の場合、1人当たりGDPが倍増するまでに40年かかる。だが2.5%なら28年で倍増する。

 

ヨーロッパは1945年以降はまさに爆発的な成長を遂げることになる。エステルが生まれた1972年後半には、フランスの1人当たりGDPは、母親のヴィオレーヌが生まれた1942年の4倍になっている。ヨーロッパの1人当たりGDPは、1950~73年に年3.8%のペースで伸びたのである。第二次世界大戦が終わった年から数えてフランス人がこの時期を「栄光の30年」と呼ぶのも故なきことではない。

 

経済成長を牽引したのは、労働生産性の急速な伸びである。つまり労働者1人1時間当たりのアウトプットが増えたということだ。アメリカでは労働生産性が年2.8%のペースで伸びた。25年で2倍になったわけである。労働者がこれほど生産的になった理由の1つは、教育水準が上がったことである。1880年代に生まれた平均的な人は小学校しか出ていない。これに対して1980年代に生まれた平均的な人は大学2年生程度までの教育を受けている。もう1つの理由は、労働者の使う機械の性能がどんどん改良されたことだ。電気と内燃機関が動力の主力に躍り出たことも大きい。

 

いくらか大胆な仮定を設ければ、この2つの要素の労働生産性への寄与度を計算することが可能だ。ロバート・ゴードンは、教育水準の上昇でこの期間の労働生産性の伸びの約14%が説明できるとしている。さらに機械設備の改良に投じられた資本投資で、19%が説明できるという。

 

労働生産性の伸びの残りの部分は、経済学者に測定可能な要因ではない。そこで経済学者は説明できないと言う代わりに、固有の名前を与えた。全要素生産性(TFP)がそれである。もっとも成長論の父と呼ばれるロバート・ソローは、全要素生産性は 「われわれの無知を計量化したもの」 だと言っている。

 

同じ機械を使う同じ教育水準の労働者が同じインプットを投入しているのに、去年よりも今年の1時間当たりのアウトプットが増えたとすれば、それはTFPが伸びたからである。人間は既存のリソースの効率的な活用をつねに追い求める。その重要な一翼を担うのが技術革新である。コンピュータのチップはより安価で高速になり、新しい合金が発明され、成長が速く水をあまり必要としない新種の小麦が開発される、という具合に。

 

1970年までの数十年間が他の時期と比べて特別な時期になったのは、TFPがとくにハイペースに伸びたからである。アメリカでは1920~70年のTFPの伸びは、1890~1920年の4倍に達した。ヨーロッパにおけるTFPの伸びは、アメリカよりもさらにハイペースだった。アメリカですでに発展した技術革新を導入できたことが一因だったと考えられる。

 

この目を見張るTFPの伸びは、国民所得統計に現れただけではない。生活の質のどの点から見ても向上した。さまざまなものを潤沢に消費し、健康で長生きできるようになった。19世紀にはあたりまえだった児童労働も、欧米ではほぼ見られなくなっている。すくなくとも先進国の子どもたちは子ども時代を謳歌できるようになった。

 

 

■ 冴えない40年

だが1973年あたりを境に、伸びは止まってしまった。平均すると、その後の25年間のTFPの伸びは、1920~70年の3分の1にとどまっている。危機から始まった停滞がニューノーマル(新常態)になったのである。とはいえ、停滞が長引くことがすぐにわかったわけではない。学者や政策担当者は、当初これは一時的な不調であってすぐに自律的に回復すると考えていた。だがアメリカのGDP成長率は2018年半ばにいくらか持ち直したものの、TFPの伸びは低いままだ。この年のTFPの伸びはわずか0.94%で、1920~70年の1.89%の比べると半分に過ぎない。

 

この新たな停滞は経済学者の間で活発な議論を呼び起こした。日頃耳にする明るい材料を考えると、この低迷ぶりは受け入れがたかったからである。早い話がシリコンバレーだ。イノベーションに満ちあふれ、創造と破壊を日々行われている。たしかに、コンピュータ、スマートフォン、機械学習・・・・・・と進化は止まらない。それなのに経済が成長の兆しさえ見せないとは、どういうことなのか。

 

議論は2つの疑問を軸に展開されてきた。1つ目は、生産性の持続的なハイペースの伸びは復活するのか。2つ目は、ニューエコノミーがもたらす幸福や満足はGDPでは計測できないのではないか、ということである。

 

 

■ 幸福の創出とGDP

子どもの頃、玩具を買ってもらえなかったアビジットは、長い午後を花で戦争ごっこをして過ごしたという。アビジットによれば、あの長い午後は子どもの頃の最も楽しい時間の1つだったという。これはまちがいなく幸福の1つとしてカウントすべきだろう。だがGDPの従来の定義では、この幸福はまったくカウントされない。経済学者はこのことにずっと前から気づいていたが、ここで改めて強調しておくべきだと感じる。もしコルカタで人力車の車夫が仕事を休んで恋人とひとときを過ごしたら、GDPは減る。だが幸福の合計はどうして増えないのか。GDPは、値段がついて販売できるものしか対象にしないのである。

 

成長がつねにGDPでのみ数値化されていることを考えると、これは大きな問題だと言わねばならない。TFPは1995年に急伸した後に2004年に再び伸びが鈍化したが、ちょうどこの頃フェイスブックが人々の生活の中で大きな地位を占めるようになる。2006年にツイッターが、2010年にはインスタグラムが続いた。

 

これらのプラットフォームに共通するのは、名目上は無料であること、運営にあまりコストがかからないこと、広く人気があることだ。現在のGDPの計算では、料金を払えばカウントされる。だが動画を見ても、オンラインに投稿しても、ほとんど場合に料金は発生しない。これでは、幸福の創出へのフェイスブックの寄与度があまりに過小評価されていると言えないだろうか。

 

GDPにカウントされるフェイスブックの運営コストとGDPにカウントされないフェイスブックが創出する幸福(または不幸)との間にはほとんど関係もない。しかし、計測された生産性の伸びが鈍化した時期と、SNSが爆発的に浸透した時期がほぼ同じであることは、意味深長だ。GDPにカウントされたものと幸福度の上昇としてカウントすべきものとのギャップがこの時期に拡大したと考えることは十分に可能である。幸福を増やしたという意味では、真の意味の生産性が伸びたと言えるのではないだろうか。それなのにGDPではまったく無視されている・・・・・・。

 

 

■ 無料サービスの価値をどう計測するか

SNSのカウントされていない価値は、先進国における生産性の伸びの鈍化(と見えるもの)を埋め合わせられるのだろうか。これは悩ましい問題である。無料のサービスの価値は、どのように計測すればいいかわかっていないからだ。

 

だが、このサービスに人々がいくら払っていいと考えているかは推定することができる。たとえば、インターネットの閲覧に費やした時間を計測し、その時間働いて得られたはずのお金に換算する方法はその1つだ。この方法で試算した研究によると、アメリカ人にとってのインターネットの価値は、2015年は1人当たり年間3,900ドルになるという。GDPに換算すると、同年の「失われたアウトプット」3兆ドル(2004年以降の生産性の伸びの鈍化がなかったとすれば達成されたはずのGDPから実際のGDPを差し引いた差額)の約3分の1が埋め合わされることになる。

 

このアプローチの問題点は、インターネットに費やす代わりにその分だけ労働時間を増やしてお金を稼ぐ選択肢が人々にあるとの前提になっていることだ。だが決まった時間だけ働く人々にそのような選択肢はない。となれば、1日のうち働いていない時間は何か楽しみを見つけることになり、本を読んだり友人と過ごしたりするよりはインターネットのほうがすぎだというだけのことになる。となれば、それに年間3,900ドルの価値をつけるわけにはいくまい。

 

また、別の問題もある、インターネットなしの人生は考えられない、毎朝フェイスブックやツイッターをチェックしないと気が済まないという人いるとしよう。この人は知人の近況を知り、楽しいイベントや有意義な情報を収集するのに至福の時間を過ごす。一方、もう忘れてしまいたいような友人からの投稿を見てとりとめもなく2時間を過ごす人もいるだろう。そのどちらも同じ2時間としてカウントしたら、前者にとっての価値を過小評価することになる。

 

費やした時間に基づく方法ではインターネットの価値を大幅に過大評価したり過小評価したりする可能性があるとなれば、別の方法を探さなければならない。その1つとしてフェイスブックへのアクセスを遮断したらどうなるかという実験を行うランダム化比較試験(RCT)が何種類か行われている。

 

その中で、被験者になにがしかの報酬を払ってフェイスブックへのアクセスを1か月遮断してもらった。すると結果は――幅広い幸福度・生活満足度に関する項目で、本人が申告する評価が上昇したのである。また興味深いことに、意外に退屈しなかったと答えた人も多かった。そう回答した人たちの多くは、友人や家族と時間を過ごすことに楽しみを見つけたようである。実験後にフェイスブックを再開した人たちの多くは、閲覧の頻度が実験前より大幅に下がり、数週間後になってもフェイスブックで費やす時間は以前の23%減にとどまった。

 

以上の調査で判明したことは、フェイスブックには中毒性があるという見方と一致する。大方の人はフェイスブックが病み付きになっており、それなしでは生きられないとまで感じている人も少なくないが、実際にやめてみるとそうでもなかった。

 

となれば、フェイスブックの価値はいったいどの程度なのか。はっきりした答えは出ない。いくらかでも自信を持って言えるのは、フェイスブックは熱烈なファンが信じているほど全人類に貢献しているわけではないが、それでも人々は現在の無料以上の価値を認めているということぐらいである。すくなくとも、友人がみなフェイスブックかインスタグラムかツイッターのどれか(または全部)をやっているという状況では、そう言える。

 

では、こうした新技術を「ほんとうの価値」で評価したら、経済成長のペースはもっと加速するのだろうか。現在手元にあるさまざまな研究成果を見る限りでは、おそらく答えはノーだ。ヨーロッパの栄光の30年やアメリカの黄金時代は、計測されたGDPのハイペースな伸びに現れていた。だがそのような高度成長の復活を予見させるような証拠は、残念ながら存在しないと言わざるを得ない。

 

 

■ ソローの直観

だがそう言ったからといって、とくに驚きではあるまい。なにしろ戦後の高度成長期の最中だった1956年に、ロバート・ソローははやくも成長がいずれ減速すると予想しているのである。

 

彼の基本的な考えは、こうだ。1人当たりGDPが増えると、人々はより多く貯蓄するようになる。よって投資に回るお金が増え、労働者1人当たりに投下される資本(資本装備率)は増える。すると資本の生産性は低下する。機械が1台しかなかった工場に機械が2台になったとしよう。すると同じ数の労働者で2台の機械を同時に動かさなければならない。したがって導入された追加的な機械は、前よりも少ない労働者で動かすことになる。となれば追加的に投入された資本もその結果である追加的な新しい機械も、GDPへの寄与度がどんどん減っていく。かくして成長は減速する。そのうえ、資本生産性が低下すれば資本のリターンも減る。すると貯蓄意欲が薄れ、ついに人々は貯蓄をしなくなって成長はますます減速する。

 

この論理は、資本の乏しい国、潤沢な国、どちらにも当てはまる。資本の乏しい国は、追加的な投資の生産性がきわめて高いのでより速いペースで成長する。資本の潤沢な富裕国は、追加的な生産性がさほど高くないので成長が遅い。よって、労働力と資本の大幅な不均衡はいずれ是正されると考えられる。

 

短期的には、不均衡は存在しうる。たとえば今日のアメリカがそうだ。GDPに占める労働者への報酬(労働分配率)は下がり続けている。だが長期的には、経済には自ずと均衡成長路線に近いところで安定する傾向がある。すなわち労働も資本もおおむね同じペースで成長する。人的資本もそうだ。GDPも結局のところ労働、技能、資本の生産物であるから、ソローはGDPもやはり同じペースで成長すると主張した。

 

労働人口の増加が過去の出生率と就労希望者の数によって決まる以上、これを左右するのは人口動態だとソローは考えた。ただし、全要素生産性(TFP)の改善を加味しなければならない。たとえば、技術の進歩などによって労働者の生産性が高まり、2人分の仕事を1人でこなせるようになれば、労働力人口は実質的に2倍になったことになる。

 

ソローは、このような大きな変化は一国の経済や政策とは無関係だと考え、実質的な労働力人口の増加率を経済の範疇から除外した。ソローが労働力人口の増加率を「自然成長率」と呼んだのはこのためである。ソローの理論からは、GDPも長期的には労働力人口の増加率と同じペースで成長するので、やはり自然成長率ということになる。

 

ソローの理論からはいくつかの仮説を導き出すことができる。第一は、成長は鈍化する可能性があるということだ。大転換後の高度成長期を過ぎると、経済は均衡成長経路に回帰する。これは、1973年以降にヨーロッパに起きたこととぴたりと符合する。戦争で破壊され、資本が払底したヨーロッパでは、遅れを挽回するためにやるべきことは多く、資本の生産性は高かった。だがキャッチアップによる高度成長時代は1973年までに終わっている。一方アメリカでは、ソローの考えた投資主導の成長は戦後あきらかに鈍化する。だが幸運なことに、それに代わってTFPが1973までハイペースで伸び続けた。先進国で金利は軒並み低いという事実は、まさにソロー・モデルのとおり、資本が潤沢であることを示しているように見える。

 

 

■ 収束仮説

第二のより衝撃的な仮説は、経済学者が収束仮説と呼ぶものである。資本が少なく、それに比して労働力が豊富な国(多くの貧困国がそうだ)は、まだ均衡成長経路に達していないので、成長ペースが速い。労働と資本の均衡を改善することで高度成長を遂げ、その結果として長い間には富裕国との1人当たりGDPの格差は縮まる。他の要素も同じ経過をたどるので、貧困国は次第に富裕国に追いつく。

 

ソロー自身は用心深く、必ずそうなるとは言っていないにもかかわらず、この神話は30年にわたって信奉され、それからようやく経済学者たちは、ソロー・モデルが現実と全然一致しないと気づき始めたのである。

 

まず、貧困国が富裕国より速いペースで成長するとは言えない。1960年の1人当たりGDPとその後の成長率の間の相関関係は、ゼロにきわめて近い。では、第二次世界大戦後のヨーロッパがみごとにアメリカに追いついた事実をどう説明するのか。ソローは答えを用意している。ソロー・モデルは本来なら同じはずだったはずの国同士について記述しているのだというのである。なるほど西ヨーロッパとアメリカは多くの点でよく似ているし、戦争がなければ同じはずだったはずだろう。ならば収束するのも頷ける。

 

その一方で、ソロー・モデルによれば、生得的に倹約家でアウトプットのうち投資に回す比率が高い国ほど長期的には富裕になる、とは言える。また、自然成長率に落ち着くまでは、当初は貧しい国がより多くの投資を行えば、1人当たりGDPが高い水準に収束するまではハイペースで成長する、ということも言える。では、発展途上国と欧米に差がついたのは投資不足が原因なのだろうか。以下で検討するが、どうやら答はノーのようだ。

 

 

■ なぜ成長するのか

ソロー・モデルから導き出される第三の、そして最も大胆な仮説は、1人当たりGDPの伸びは、相対的に富裕な国では、いったん経済が均衡成長に達するとさして差がなくなるというものである。基本的にソロー・モデルでは、この差はTFP成長率のちがいに由来する。そしてソローは、すくなくとも富裕国にとってTFP成長率はほぼ同じだと考えていた。

 

ソローの考えでは、TDPの成長はただ起きるものであって、なぜ起きるのか、どうすれば起こせるのかはよくわからない。だから政策当局もほとんど手の打ちようがない。これは大方の経済学者にとってたいそう居心地の悪いことだ。

 

一国の均衡成長率は政策にはほとんど左右されないという見方に反論が出るのはある意味で予想されたことだが、この反論はさまざまな意味でソローの鋭い視点を見落としている。第一に、ソローが技術の進歩を促す要因を問題にしたとき、それは、すでに最先端にいる国が対象だったということだ。だが、アイデアがなぜ国境で止まってしまうのか説明がつかない。

 

第二に、ソローが問題にしたのは均衡成長率に達した国の成長率だった。そして、富裕国の一部はすでに均衡成長率に達していたと考えられるので、その時点で資本が不足している国にとっては、そこに追いつくのはかなり先になる可能性が高い。ケニアとインドがソローの言う均衡成長率に達するまでには、両国は現在よりもはるかに富裕になり、最新技術の多くを活用しなければなるまい。現時点で両国が技術面で大幅に遅れをとっているのは、資本の欠如の表れと考えられる。

 

最後に、均衡成長経路をめざす途上にある国は、すでに経路に乗っている国よりも、技術をアップグレードするペースが速い。たしかに自動運転車、3Dプリンターといったブレークスルーが出現するのは、決まって先進国である。だがそうした技術は、先行する国で試され、改良され、使われてきた技術なのだから、未知の領域を切り拓くより容易であることは言うまでもない。

 

こうした理由から、ソローは国によって均衡成長率に差が出る原因を探ることをあえて断念したのだと考えられる。つまり、資本蓄積のプロセスが終わって資本のリターンが低くなったら、もはや長期的な成長についてソローに言えることはほとんどないということだ。

 

ソローのモデルは、経済学者の言う外生的成長モデルである。「外生的」とは、外からの影響や外から来た要因による、という意味だ。内側からは長期的成長率について何もできることはない、と認めたわけである。要するに成長は私たちの手には余る、と。

 

 

第5章 成長の終焉?② につづく