『良い戦略、悪い戦略』 リチャード・P・ルメルト著 村井章子訳(2012年6月22日第1刷)

                      

 

 

◇ 第1部 良い戦略、悪い戦略 (序章、第1章~第5章) ◇

 

 

 

第4章 悪い戦略がはびこるのはなぜか

 

 

「なぜ悪い戦略がこれほどまでに多いのか」という疑問が当然ながら湧いてくる。悪い戦略とは見込み違いや判断ミスから生まれるわけではない。競争相手の力量を見誤る、自社のリソースを過大評価する、過去の教訓を読み違える、状況の変化による機会や脅威を見落とす、等々である。

 

悪い戦略がはびこるのは、分析や論理や選択を一切行わずに、いわば地に足の着いていない状態で戦略をこしらえ上げようとするからである。つまり悪い戦略は、良い戦略を練り上げるためのハードワークを自ら避けた結果なのである。しかし相反する要求や両立し得ない価値観の中から選択をすることこそリーダーの仕事であり、それを放棄するとなれば、悪い戦略しか生まれない。悪い戦略はまた、お仕着せの穴埋め式テンプレートからも量産されている。空欄にビジョンやミッションや戦略を書き込んでいく、あれだ。

 

悪い戦略を生むもう1つの源泉は、アメリカの宗教運動ニューソートから派生したポジティブ・シンキングに代表される思考法である。端的に言えば「信じれば思いは叶う」といった考え方で、チャド・ローガンはまさにこれだった (第3章参照)。悪い戦略を生む要因はほかにもあるが、主なものはいま挙げた3つである。以下ではそれについてくわしく説明したい。

 

 

 

■   困難な選択を避ける

良い戦略は重要な課題にフォーカスする。となれば当然、たくさんある課題の中から選びとる作業が必要となる。どれかを選んで残りは捨てなければならない。この困難な作業をやらずに済ませようとすると、ごった煮ができあがってしまう。

 

1992年の初めに、私はデジタル・イクイップメント・コーポレーション (DEC) の戦略会議に参加したことがある。私が会議に呼ばれた時点では、何か大胆な改革を行わない限り存続も危ぶまれる状況に陥っていた。会議には幹部全員が出席していたが、ここではキーパーソン3人だけを取り上げることにしたい。3人の名前は、仮にアレック、ビバリー、クレイグとしておこう。この3人は、会社の将来の方向性についてまったく異なる考えを持っていた。

 

アレックは、ハードウェアとソフトウェアの統合に力を入れるべきだと主張した。ビバリーは、顧客が抱える問題に応じてソリューションを提供していくことが、これからのDECが生き残る道だと述べた。クレイグは、DECもチップの開発に本腰を入れるべきだという。

 

こういう時に、議論をするのはやめてとりあえず3つともやってみればいいじゃないか、と言い出す人がいる。だが、2つの理由からそれは好ましくない。第一に、争いを避けるために全員の意見を採用するという方針をとった場合、誰も厳しく意見を吟味しなくなる。最適の意見しか選択されないとわかっているからこそ、自分の提案に磨きをかけるのだし、出された意見の長所短所を真剣に評価するのである。秩序ある議論では、しっかりとした裏づけや納得のゆく根拠が要求されるので、根拠に乏しい意見は淘汰されて、妥当な選択につながりやすい。

 

第二に、チップ戦略とソリューション戦略では、DECがこれまでに持っていなかったスキルを追求する大々的な変革が必要である。この2つの戦略を成功させるには、能力開発とともに業務の抜本的な見直しもしなければならない。会社の存続がかかっている時にはあまりにリスクの大きい戦略であり、また、両者を追求するのは、共通性がほとんどないため無理がある。二正面作戦は、何事につけ成功率が低い。

 

DECの3つの選択肢 (箱もの、チップ、ソリューション) は三すくみ状態になっており、 「コンドルセのパラドクス」 が成り立つことがわかる。同程度の地位と影響力を持つ3人が自説を主張して譲らないため、議論は白熱した。DECのケン・オルセンCEOは苛立ち、なんとか意見をまとめろと指示する。これはまったく不適切な指示だった。3人の意見はどこにも共通点がなく、上下関係からいっても誰かが譲歩する必然性はなかったからである。結局戦略会議が 「まとめた」 のは、次のようなステートメントだった。

 

「DECは高品質の製品およびサービスを提供するために努力し、データ処理で業界トップを目指す」。この空疎で毒にも薬にもならないステートメントは、もちろん戦略ではない。どれを取ってどれを捨てるかを決めるのが難しいときは、えてしてこのような結果になりがちである。選ぶという困難な作業を避け、どの意見も捨てず、誰の対面も傷つけないようにしていたら、良い戦略は生まれない。

 

ケン・オルセンは1992年6月に更迭され、結局1998年にコンパックに買収され、そのコンパックも3年後にヒューレット・パッカードに買収されることになった。

 

成功している企業で重大な戦略変更をするのは難しく、オオカミが戸口に迫ってくるまで決断できないケースがよくある。これらはすべて、良い戦略を立てるのは容易ではないからである。DECの場合、オオカミはすでに1988年の時点で戸口に迫っていた。だがさまざまな立場にある人たちの知恵と知識を結集し、異なる意見を吟味して選択する作業は先送りされた。オオカミがドアをぶち破って入ってきたときになって、ようやく1つの戦略が選択された――だがそれは5年も遅すぎたのである。

 

戦略や競争優位についてはさまざまな理論が展開されているが、戦略策定のむずかしさは、結局のところ選択そのものにある。戦略は一本の柱、一本の道であって、あれこれと願望を表明する手段ではない。真の戦略を持つためには、1つを選んで他を捨てなければならないのである。だが夢や希望に「ノー」と言うのは、心理的にも、政治的にも、組織運営上もむずかしい。

 

的を絞り込んだ戦略では、明確な目標にリソースを集中させる。そのためには、戦略目標以外からリソースを引き揚げて戦略目標に回さなければならない。これは、選択と集中の必然的な結果である。だが、それまで予算も人員も潤沢に投じられていた事業やプロジェクトを打ち切るのは、大きな苦痛を伴う。

 

インテルのCEOアンディ・グローブは、まさにこの困難に直面した。半導体記憶素子DRAMの製造を打ち切り、マイクロプロセッサに集中するという選択は、心情的にも政治的にもきわめてむずかしいものだった。1984年になる頃には、インテルがDRAMで日本企業との価格競争に耐えられないことがはっきりしていた。赤字を垂れ流しながらも 「赤字を出す余裕があったからひたすら頑張っていた」 のだとグローブは話す。

 

ターニングポイントは1985年だったとグローブは回想する。その年のある日、グローブはインテルの会長であるゴードン・ムーアに憂鬱な質問を発したのだ。 「もしわれわれが更迭され、取締役会が新しいCEOを連れてきたとしたら、その男はまず何をすると思いますか」。ムーアは即答した。 「メモリ事業から撤退するだろう」。グローブはしばしこの言葉をかみしめ、それからおもむろに言った。 「ではなぜわれわれが、クビになったつもりなって、それをやらないんです?」。これだけ決心を固めてからも、実際に改革を断行するまでにはなお1年を要した。なにしろメモリ事業は長いこと中核事業として研究、製造、キャリア形成のいずれの面でも花形であり続け、インテルの誇りそのものだったのである。

 

戦略を転換し資金や人材やエネルギーや注意をどこか1か所に集中しようとすれば、会社そのものに倒産の危機が迫っているようなときは別として、必ず不利益を被る人が出てくる。したがってこの人たちは、戦略の転換に頑固に反対する。大きな企業の場合、これは避けられない事態と言える。どれほど説得されても、この人たちは変化を望まない。そしてリーダーが選択に踏み切れず、新しい戦略を導入することができないと、八方美人型あるいは当たり障りのない戦略もどきでお茶を濁すことになる。そのような戦略もどきが発表されたら、それはリーダーに困難な選択を貫き通す強固な意志や政治力が欠けていることの証拠と言える。

 

企業でも、あるいは政治でも、同じ行動パターンが長く続けられているほど、それは深く根をおろし、既得権と化す。各組織の抵抗を抑えるには、強固な政治的意志と強大な権力の行使が必要と考えられる。しかしそのような権力は、それとして大きな危険をはらむ。

 

 

■   穴埋め式チャートで戦略をこしらえる

ひどく奇妙なことだが、ある種の悪い戦略を量産するきっかけを作ったのは、カリスマ的リーダーの研究である。カリスマ的リーダーあるいは変革リーダー論で革新的なのは、リーダーの公式が編み出されたことである。それは、おおむね次のようなものだ。

 

第一に、ビジョンを持っている。第二に、周囲の人を 「組織のために尽くそう」 という気にさせる。第三に、人々に自信と力を与えてビジョンの実現を目指す。こうした図式化されたモデルは、高学歴の人たちの間でひどく人気が高い。彼らは同じく高学歴の部下を管理しなければならない立場であり、組織の変革は必要だが部下に命令するのはいやだという矛盾した感情を抱いている。だから、命令するのではなく「その気にさせる」「力づける」というアプローチはたいへん好ましい。

 

強力なリーダーは、戦略遂行の意欲や自己犠牲を引き出すことはできるだろう。そして、苦痛を伴う変革を受け入れさせることもできるかもしれない。しかしそれは、追求する価値と実現する可能性を備えた戦略そのものを立てることとは、まったく別のことである。実りある結果を手にするためには、カリスマ的リーダーであれ、変革リーダーであれ、前途にある障害に注意深く気を配り、戦略を立てなければならない。

 

2000年代前半になると、リーダーシップとともに戦略理論の研究も進み、テンプレート式の 「戦略プランニング」 が考案されるようになる。いまやこの種のフォームは大流行で、テンプレートはだいたいこんな風になっている。

① ビジョン

組織の将来の姿を思い浮かべながら、ここにあなた独自のビジョンを書き入れてください。ビジョンとしては、トップやベストを目指すというものが一般的です。

② ミッション

高い理想と正しい信念に裏づけられたミッションを書き入れてください。

③ 価値観

組織の価値観を示す文章を書き入れてください。反感を買うようなもの、論争になるようなものは避けることが大事です。

④ 戦略

あなたが願うこと、目標とすることを書き入れてください。これが組織の戦略となります。

 

このテンプレート方式は、企業でも教育機関でも政府官庁でも熱狂的に支持された。この手順に従って書き込んでいくだけで、あたかも深い洞察に裏づけられたかのようなありがたいステートメントができあがるからである。

 

かくして、ミッションとは何か、ビジョンとは、戦略とは、イニシアチブとは、優先順位とは、といったことを嬉々として説明し指導するコンサルティング会社が大量に出現した。考えてみればコンサルタント自身も、テンプレートのおかげで、クライアントが直面する課題や機会を分析し選別する難儀な作業から開放されたわけである。それに、課題や難局には目をつぶってビジョンやミッションといった前向きなものに取り組んでいれば良いのだから、誰の感情も傷つけずに済む。

 

それでは、テンプレートから生まれるビジョンやミッションがどういうものか、いくつか例を紹介しよう。

① 国防総省のミッション

「紛争を阻止する。阻止に失敗した場合には、戦って勝つ」 というものである。これに異論を唱える人はあるまいが、このミッションは何も意味をなさない。わざわざ印刷して配るのは資源のムダと言うべきだろう。

② コーネル大学のミッション

「未来のリーダーを育て知のフロンティアを拡げることによって、社会に貢献する学問の場でありつづける」である。これは要するに 「コーネル大学は大学である」 と言っているに過ぎず、何も意味のある情報を発していない。コーネル大学が何かを計画したり方針を立てたりするときに、このミッションは何の指針にもならないだろう。

③ カリフォルニア州立大学サクラメント校

「卓越した学習プログラムと共通カリキュラムにより、サクラメントのみならず広く全米に知られる大学になる。また本学は、多様性を特徴とする 『ニュー・カリフォルニア』 開発の主要パートナーとなる」 というビジョンを掲げている。これを読む限りでは、同大学が成功の基準としているのは 「知名度」 であるらしい。これではセレブの追っかけ雑誌 《ピープル》 と変わらない。

④ CIAのビジョン

「1つのエージェント、1つのコミュニティになる」 というものである。公式に発表されているビジョンのほうは、 「より良いチームワークと能力開発」 である。これを見たら、ウサマ・ビンラディンの殺害が最優先目標であるなどとは、想像もつくまい。そもそもCIAが戦略目標をウェブサイトで公開することなど、誰も望んではいまい。それなのに、なぜ空疎な目標をわざわざ発表するのだろうか。

⑤ NECのビジョン

NECの今後10年間のビジョンは 「人と地球にやさしい情報社会をイノベーションで実現するグローバルリーディングカンパニー」 である。NECの株主資本利益率は2%未満、営業利益にいたっては売上高比で1.5%という低さだ。これでは研究開発費も捻出できまい。NECに必要なのは利益を増やす戦略であって、聞こえの良いスローガンではない。

 

この種の美辞麗句に満ちたビジョンやスローガンは、カリスマ的リーダーや変革リーダーが得意とするところであり、 「リーダーたるものビジョンを打ち出さねばならない」 という発想の申し子と言える。だが本当に有効な戦略を練り上げて実行しようという人にとっては、空疎なレトリックや悪い戦略の存在は重大な障害物となる。戦略なんてこんなものだという見方が定着し、意味のある戦略を掲げても、テレビのCMのように聞き流されかねない。

 

 

■   成功すると考えたら成功する

前章で登場したチャド・ローガンはジャック・ウェルチに心酔し、 「不可能を可能にする」 のだと言った。だが実はウェルチの発言や著作は、ちょうど聖書のように、どのように解釈することも可能である。ウェルチは戦略プランニングなど時間のムダだと話す一方で、 「戦略策定の第一歩は、持続的な競争優位となる何かを見つけ出すこと、言い換えれば、どうすれば勝てるかを見極めることだ」 と言っている。またウェルチはがんばる意欲が重要だと語る一方で、 「競争優位がないなら競争するな」 とも言い切った。たしかにウェルチは、家電、石炭、半導体事業には 「がんばれ」 とは言っていない。彼はこれらの事業から全面的に撤退し、業界でトップを争える事業だけには集中した。切り捨てる事業の人間には、ビジョンを共にすることさえ求めていない。こうしたわけだから、ジャック・ウェルチを目指す人は、ウェルチが書いたことではなく、彼の行動に注意を払うべきである。

 

ジャック・ウェルチは 「不可能と見えることをやり遂げる」 うんぬんと言ったとされているが、これは士気を鼓舞する典型的な表現であり、古今東西の指導者の演説や著作では、この手の言葉をよく見かける。いわゆるポジティブ・シンキングの源流は、プロテスタント流の個人主義にある。

 

いまから150年前のアメリカで始まったプロテスタント改革では、個人と神との間にカトリック教会が介在する必要はないと主張された。なぜならどの人にも内なる神性があるからだ、という考えが主流となっていく。この思想からクリスチャン・サイエンスが派生し、すべての病気の原因は心的なものであり、健全な思想と信念を持つことによって病を根絶できると唱えた。

 

1890年になると、この宗教哲学は、人間の信念には物理的世界に影響をおよぼす力があるという神秘思想へと変化する。これが、ニューソート運動である。要するに、成功すると考えたら成功するというのである。逆に、失敗すると考えたら失敗することになる。

 

20世紀の初めの20年間ほどは、ニューソート運動の創始者であるプレンティス・マルフォードの1889年の著作 『精神力』 や20世紀初めのウォレス・ワトルズの 『富を引き寄せる科学的法則』、アーネスト・ホームズの1919年の著作 『クリエーティブ・マインドと成功』 など、この種のマインド本の全盛期だった。

 

ニューソート運動は1920年代前半にピークに達し、その後はさまざまな思考法に形を変えて、1930年代にはモチベーションやポジティブ・シンキングが主流となる。ナポレオン・ヒル 『思考は現実化する』 を筆頭に、アンソニー・ロビンス 『一瞬で自分を変える方法』、最近ではワトルズの信奉者であるロンダ・バーンが2007年に書いた 『ザ・シークレット』 が大ヒットした。今日ではこうした考え方を、1世紀前に書かれた著作の焼き直しであるにもかかわらず、 「ニューエイジ」 と呼ぶ。

 

ニューソートを構成するさまざまな要素を組み替えて生まれたのが、いわゆる戦略思考である。最近では、マルフォードばりの発想を組織の中に置き換えたような論調が目立つ。その典型が、ベストセラーになったピーター・センゲの 『最強組織の法則』 である。センゲが強調する 「共有ビジョン」 の重要性は、企業経営者に多大な影響を与えた。

 

この主張は多大な説得力を持っていたが、実際には的外れである。フォードやアップルの成功は卓越した能力と幸運の賜物であって、それをあらゆるレベルで共有されたビジョンに帰すのは、事実の歪曲と言わざるを得ない。アップルはパソコンを発明したわけではない。その技術はすでに存在していて、無数の実業家が 「誰でも使えるコンピュータ」 を設計しようと躍起になっていた。アップルがそれに成功したのは、スティーブ・ウォズニアックという1人の天才によるところが大きい。さらに世界初のパソコン用表計算ソフト、ビジカルクが開発されるという幸運に恵まれ、それまで一部の人しか使わなかったパソコンを誰もが買うようになった。これが、アップルⅡの爆発的ヒットにつながったのである。

 

センゲは継続的な自己の向上 (自己マスタリー) を奨め、そのためには自分の内面を見つめる作業が必要だとして、そのお手本にフォードの神秘的な信念を引用している。フォードは常々、自分が成功したのはラルフ・ウォルドー・トライン 『人生の扉をひらく 「万能の鍵」』を読んだおかげだと語っていた。ニューソート系の思想では、とにもかくにもネガティブなことを思い浮かべてはいけないとされているが、共有ビジョン派では揺るぎないコミットメントが大切であり、自らのビジョンの正しさを何物にも惑わされることなく信じなさいと説く。

 

こうした思想がいつも新しい考えであるかのように提出されることには、まったく驚かされる。何度も繰り返され手垢のついたアイデアであっても、そのたびにフレッシュなものとして多くの読者を惹きつける。こうしたアドバイスは宗教のまじないのようなもので、強く望めばきっと何かが起きると信じたい気持ちをうまく利用しているのである。

 

強く信じることや自分の内面を磨くことでパワーが出るものかどうか、私は知らない。だが、成功すると思えば成功すると信じるのは一種の妄想であって、経営や戦略への取り組み姿勢としては奨められないことだけは確かだ。分析というものは起こりうる事態を考えることからスタートするのであって、その中には好ましくない事態も当然含まれる。

 

大空を飛ぶイメージだけを思い浮かべて失敗を考えことのない人々の手で設計された飛行機には、私は乗りたくない。そのような教えを信じることは、批判的に考える能力を捨て、良い戦略をあきらめることにほかならないと私は思える。