『良き社会のための経済学』 ジャン・ティロール著 村井章子訳 (2018年8月24日第1刷)

 

 

 

◇ 第Ⅱ部 経済学者の仕事 ◇

 

 

 

第4章 ③研究の日々

 

(第4章は①~③まで)

 

①は ↓

 

 

②は ↓

 

 

 

5  ゲーム理論と情報の経済学

 

 

ゲーム理論と情報の経済学は、経済学のあらゆる分野に革命をもたらした。以来、経済学ではもちろん、進化生物学、政治学、法学、そしてときには社会学、心理学、歴史学でも活用されている。

 

 

■    ゲーム理論

現代のミクロ経済学は、ゲーム理論と情報の経済学という土台の上に築かれていると言ってよいだろう。前者は、それぞれに固有の目的を持つプレーヤーが相互依存する環境に置かれたときの行動を分析し予測する学問である、後者は、前者と同条件のプレーヤーが独自情報を持ち合わせている場合の戦略的活用を考える学問分野である。

 

 

・ 個人の行動から集団の行動へ

社会科学と人文科学の特徴の1つは、予測が重要な役割を果たすことである。とくに重要なのは、プレーヤーの意思決定に対して周囲がどう反応しどう変化するかを予測することだ。自分がどうするかを決めるためには、他のプレーヤーがどう出るかを予測しなければならない。他のプレーヤーのインセンティブや戦略がわかっていれば、予測は合理的になる。

 

お互いに最適の戦略をとりあっていて、それ以上戦略を変えるインセンティブのない状況を 「均衡」(「ナッシュの均衡」と呼ばれることも多い)と呼ぶ。他のプレーヤーの行動は、推論 (相手の立場に立ってみて、自分ならどうするかを考える) か、または何度も繰り返される状況であれば、過去の行動からの推定によって予測することになる。

 

財布をそこらに出しっぱなしにしない人、鍵をかけていない自転車を放置しない人、自動車の運転が荒っぽい国で横断歩道をみだりに渡らない歩行者は、他人がやりそうな行動を正しく予測しているという点で、ゲーム理論の基本的な問題に答を出している。

 

横断歩道の例は、複数均衡の可能性も示している。横断歩道に近づいてもブレーキをかけない運転者は、車が近づいてくるのを見て歩行者が横断を諦めれば、何のコストも払わない。そしてもちろん歩行者の側には、危険を冒して渡ることに何の利益もない。逆に、歩行者が横断すると予測した運転者は、ブレーキをかけることに利益がある。

 

私たちはみな知らないうちにゲーム理論のエキスパートになっている。なぜなら、毎日何百回何千回と 「ゲーム」 に参加しているからだ。つまり、他人の行動を予測しなければならない状況に巻き込まれている。他人がこちらに行動に反応して行動するケースも多い。日常生活で何度も繰り返してきたゲーム(対人関係や社交など)のほうが、たまにしか遭遇しないゲームよりうまくプレーできる。

 

逆に言えば初めて入札や競売に臨む人は、どの程度の条件で札入れしたらよいか、戦略が立てられない。入札参加者は、対象品目についてそれぞれ独自情報を持っている。この状況で初心者は、プロとは逆に、過度に楽観的な値付けをする (「勝者の呪い」と呼ぶ)。というのも他の参加者の 「立場に立って考えてみる」 ことを怠るからだ。悪い情報を握っている参加者が高値を付けないこともわかっていない。

 

ある行動の選択は、他人の行動に左右されることが多い。通勤者の多くが朝8時に出勤するなら、少し早すぎるが6時に出勤すれば、私にとってメリットが多いだろう。各自が望ましい出勤時間と出勤途中の混み具合とを勘案して戦略を決めた時点で、通勤者のフローは安定した 「均衡」 状態に達する。この種の選択の場合には、他人と同じ行動をとらない戦略が選ばれる。

 

いま挙げた例は 「純粋戦略」 すなわち最良の戦略が単一であるケースだが、これに対して、とりうる選択肢の中からその都度異なる行動を実行する戦略を 「混合戦略」 という。

 

サッカーのすぐれたゴールキーパーのペナルティーキックのときにどの方向に跳ぶか調査したところ、予測がきわめてむずかしいことが判明した。右・左・中の3つの選択肢が、それぞれほぼ均等(約25%ずつ)に選ばれていたのである。

 

他人の行動を完全に予測することが不可能でありうるもう1つの理由は、必要な情報をすべては持ち合わせていないことだ。この場合、条件付きでしか予測することはできない。 「これこれの条件下では、彼らの立場なら私はこうする」 というふうに。

 

ゲーム理論の長所と短所を知るには、やはりあの有名な 「囚人のジレンマ」 の状況を考えるのがよいだろう。これは、利益相反を含んださまざまな状況の記述と分析を可能にする戦略フレームワークである。2人の囚人が共謀して犯罪を犯した。2人は別々の独房に入れられ、自白を迫られる。自白すれば減刑が得られる。2人にとってはどちらも黙秘を貫くことが最も望ましいが、各自にとっては、自白するほうが得になる。2人がともに自白すると均衡状態になる。

 

この状況を図で表すと、図表4-1のようなシンプルなマトリクスになる。2人の囚人をプレーヤー1(太字)とプレーヤー2とする。相手と協力する行動をC、身勝手な行動をDとする。たとえばプレーヤー1が協力、プレーヤー2が身勝手を選ぶと、前者の利得は0、後者は20となる

 

良き社会のための経済学 p134図表4-1

 

プレーヤーは、利得表の情報はすべて理解しているが、自分が選択するに当たって、相手の選択を知ることはできない。利得表からは、どちらも協力したとき、すなわちどちらもCを選んだとき、各自の利得は15だが合計は30になり、他のどんな場合よりも合計利得は大きいことがわかる。だが一人ひとりを見れば、身勝手に行動するほうが、協力するよりも利得は増える (利得は20)。

 

このゲームはじつに単純で分析が容易である。というのも、相手の出方にかかわらずつねに最適な戦略すなわち 「支配戦略」 がはっきりしているからだ。だからプレーヤーは、相手の行動を予測する必要がない。相手がCを選ぼうがDを選ぼうが、自分はDを選ぶことに利益がある。

 

以上から、このような状況に直面した場合には、合理的な人間は身勝手な行動を選ぶはずだということになる。ところがラボラトリー実験では、全員が身勝手を選んだわけではなかった。プレーヤーの15~25%は協力を選んだのである。となれば、経済主体は無関係の他人に対しても利己的にふるまうという前提を疑いたくなる。これについては次章で改めて取り上げる。

 

囚人のジレンマは単純化されてはいるが、重要な戦略的対立も表現できる。たとえば石油輸出国機構(OPEC)のカルテルが存在しなかった時代には、産油国にとっては増産が利益になった (戦略D)。しかしその結果、産油国が結束して減産する(戦略C)場合より価格は下落することになり、他の産油国に不利益をもたらした。OPECは生産量を割当制にし、超過した場合に罰則を科すシステムを導入することによって、すべての加盟国にCを選ぶことを強制し、加盟国全体の利益を増やせるようになった。

 

囚人のジレンマが当てはまるもう1つの例として、気候変動への取り組みが挙げられる (くわしくは第8章を参照されたい)。個々の国とっては、温室効果ガスの排出抑制をしないほうが利益があるが、それは集団にもたらす結果は悲惨である。これはまさしく、生物学者ギャレット・ハーディンの言う 「共有地の悲劇」 だ。この悲劇を避けるためには、各国に戦略Cの選択を強制しなければならないが、実際にはどの国もDを選ぼうとする。

 

 

・ 相互作用のダイナミクス

あるプレーヤーの意思決定が将来複数のプレーヤーの意思決定に影響をおよぼす状況では、どの主体も自らの決定が引き起こす影響を考慮する必要がある。ダイナミック・ゲームの理論は、こうした状況を表現する。

 

たとえば、政府が新しい法律や規則を立案するときには、新しい制度の下で消費者や企業の反応がどう変化するかを予想しなければならない。そのためには、政府は他の経済主体の 「立場に立って」 みて、その行動を予測する必要がある。この場合の均衡概念は、 「完全均衡」 と呼ばれる。完全均衡では、各プレーヤーは、自分の行動が他のプレーヤーの将来の行動におよぼす影響を完全に理解している。

 

ある主体の友人あるいは契約相手が、信頼を裏切るような身勝手な行動をとる場合、そうした行動は、その人物の本性についての情報と受け取られることになる。したがって行動に移す前に、自分の評判を台無しにしてよいか、よく考えるべきだ。このような状況は、完全ベイズ均衡の概念を使って分析することができる。

 

完全ベイズ均衡とは、完全均衡にベイズ・ルールに基づく合理的な情報処理を組み合わせた概念で、すべてのプレーヤーが他人の行動を正しく予想しており、その予想の下で自分にとって最も良いと考える行動を選択する状態を指す。

 

 

■ 情報の経済学

現代のミクロ経済学を支えるもう1つの土台は、情報の経済学である。情報の経済学が注目するのは、意思決定者が内密に持っている情報が果たす戦略的役割である。人的・経済的関係を理解するためには、すべての関係者が同じ情報を持ち合わせているわけではないこと、自分だけが持っている情報を自分の目的達成のために利用することを考慮しなければならない。

 

この理論で重要な役割を果たすのは、次の2つの基本概念である。1つは、モラルハザードである。モラルハザードは、ある契約当事者の行動が、その行動に影響を受ける契約相手からも、あるいは係争になったときに契約条件の遵守を強制するはずの裁判所からも、見られずに済む場合に起こりうる。

 

モラルハザードの例として、小作契約すなわち収穫の一部を地主に収めるという条件で耕作を小作人に託す契約を考えてみよう。地主はプリンシパルすなわち委託者に、小作人はエージェントすなわち受託者に相当する。

 

小作人は、植え付ける作物の選択や種まきの時期に十分な注意を払わなかったり、収穫を増やすための十分な努力を怠ったり、畑仕事以外のことにうつつを抜かしたりする可能性がある。そのような状況を、小作人の側にモラルハザードが起こりうる状況と言う。すなわち収穫から得られる地主の収入が、外的要因(天候不順や需要減少など)ではなく、小作人の利己的なインセンティブに基づく行動によって危険(ハザード)にさらされる状況である。

 

プリンシパルである地主には、エージェントである小作人の努力の程度をみることができない (努力が不十分だと疑っても、裁判所でそれを証明することができない)。しかも、結果が小作人の努力のみに左右されるわけではなく、小作人には責任のない出来事にも左右されうることがわかっている。

 

情報の経済学におけるもう1つの基本概念は、逆選択である (逆淘汰とも言う)。これは、契約後ではなく、契約する時点ですでに、一方が他方の知らない情報を持っている可能性に注目した概念である。

 

たとえば、地主は土地が肥沃かどうかを知っているが、小作人は知らないとしよう。この小作人がリスクテークを恐れないタイプで、本来は定額契約が向いているとしても、地主の側から定額契約を提案されたら疑いを抱くはずだ。地主の奴はこの土地が瘦せているのを知っていて、リスクから逃れたがっているのではあるまいか、と。このような場合には、地主が不利な情報を隠している 「証拠」 を掴むために、小作人の側から収穫の折半を提案してみるとよい。

 

この単純な例から、モラルハザードや逆選択という分析のフレームワークがさまざまな場面に応用できることに気づくだろう。たとえば、ネットワーク産業(輸送・物流・通信・電気ガスなど)や銀行の規制がそうだ。

 

規制当局は、企業の技術力、コスト削減の可能性、銀行が保有する資産のリスク・プロファイルなどについて不完全な情報しか持ち合わせていない。また、企業のガバナンスにも応用できる。株主や債権者などのステークホルダーは、経営上の判断とその影響について不完全な情報しか持ち合わせていない。

 

情報の経済学はここ30年ほどで発展した学問分野で、交渉や管理のメカニズムを考える際の基本原理を生み出した。この原理に照らせば、たとえば契約の作成と実行に関するシンプルなルールを編み出すことができる。契約を結ぶ当事者は、相手方が情報に関して有利な立場にある場合には、こちらの利益をある程度放棄してでも相手に情報を明かさせるほうがよい、というルールはその1つだ。

 

情報の経済学から、契約は二通りの方法で確実なものにできることがわかる。1つは、技術的要素、計測可能データ、監視・確認可能な行動のみを対象にすることだ。雇用政策、気候変動対策などでは、この方法が有効である。

 

もう1つは、信賞必罰を徹底することである。このようなインセンティブ・メカニズムが用意されていないと、一方の当事者が身勝手な行動を繰り返すようになり、信頼関係や協力関係が台無しになりかねない。また契約は、動的な変化を視野に入れて作成しなければならない。締結時には予想できなかった(おそらく一方の当事者のみ予見できた)ことが、契約期間内には否応なく起きるものだからである。

 

いま挙げた例は、情報の経済学のほんの初歩の部分にすぎない。それでも、一方の当事者が自己の利益になるように立ち回り、情報の非対称性を利用して相手方を不利に追いやることがありうるケースで、情報の経済学が合理的な行動にどのように役立つか、いくらかイメージを掴んでいただけたことと思う。

 

 

 

6  方法論の研究

 

 

多くの研究は、必ずしも応用を目的とするわけではなく、ましてある特定の経済問題を解決することが目的でもない。方法論を対象とする研究をというものも存在する。この種の研究は現実の問題に直接応用できるわけではないが、他の理論研究におけるモデル化を可能にする。実証研究に概念フレームを提供するといった貢献をする。

 

たとえば計量経済学が統計学と融合し、また独自の技術を開発したおかげで、経済現象をより正確に計測し、因果関係(変数aは変数bに影響をおよぼしているか、それとも単にaの増減とともにbも増減するだけか)を明確にできるようになった。これは、分析結果を公共政策に応用するために必須条件である。

 

ゲーム理論の純粋戦略に関する研究では、ダイナミック・ゲームを中心に取り上げた。ダイナミック・ゲームとは、時間の経過に伴って利害対立の状況が変わっていくゲームを意味する。ダイナミック・ゲームでは、プレーヤーは相手の過去の選択に反応することになる。

 

マルコフ完全均衡の定義によれば、時間経過とともに変化するどんなゲームでも、過去の履歴のうち将来の戦略を条件づけるようなものの集約(「状態変数」と呼ぶ)を明確に特定できる。つまり将来の戦略がプレーヤーの将来の利得におよぼす影響を知るために必要な情報は、ゲームの進行に沿って合成されるその瞬間までの集約にすべて含まれている。

 

たとえば寡占市場における企業の現在の生産能力の水準は、能力の獲得方法や時期が無関係であれば、その産業の過去の集約ということになる。マルコフ完全均衡の概念は産業構造の研究にきわめて有用であり、いまでは産業経済の実証研究において主流のアプローチとなっている。たとえば、時間経過とともに変化する競争企業の行動を分析するとき、計量経済学はまず必ずマルコフ完全均衡を使う。

 

完全ベイズ均衡は、情報非対称型ゲームの解概念であるベイズ均衡に、ダイナミック・ゲームの均衡を表す完全均衡の概念を組み合わせたものである。

 

このほか契約の理論研究では、契約の次の4つの面に注目して分析フレームワークの拡張に取り組んだ。第一は、ダイナミクスである。契約関係は繰り返させることが多く、また契約期間中に再交渉が行われることもある。

 

たとえば逆選択の状況(エージェントはプリンシパルの知らない情報を持っている)では、エージェントの成果が当人の特徴や環境に関する情報(仕事の難度、エージェントの能力、意欲など)を露呈し、将来の契約に影響をおよぼす。

 

たとえば豊富な収穫を見た地主は、貸した土地が肥沃であったこと、あるいは小作人が勤勉であることを推察する。すると地主は、将来の契約により厳しい条件を課そうとする。定額契約の場合には料金を吊り上げる、などだ。こうした地主の行動を予想した小作人は、対抗策として耕作を怠けたり、収穫の一部を隠したりする。

 

第二は、階層である。契約には、しばしば両当事者(プリンシパルとエージェント)以外の人間が関与する。たとえば、収穫を地主と小作人で折半する折半契約では、収穫の計量と監視を代理人に委託することがある。

 

実際の経済でも、こうした代理人や仲介人はあちこちに存在する。金融サービス事業者(銀行、投資ファンドなど)はその代表例である。多数のプレーヤーが関与していることに目をつけたプレーヤーの中には、他の組織のメンバーと共謀を図る者も出てくる。

 

第三は、情報に通じたプリンシパルである。独自情報を持っているプリンシパルからエージェントに契約が提案されたケースを想定し、その選択をモデル化する概念ツールを開発した。たとえば、金融市場で資金調達する企業経営者(プリンシパル)は、有望なプロジェクトのためにほんとうに資金を必要としているかもしれないが、自社に関する悪いニュースが公に出回る前に資産の一部を現金化したがっているのかもしれない。投資家(エージェント)は、この企業が発行する形態(株、社債など)と数量をシグナルとして経営者の意図を読み取ろうとする。

 

第四は、企業や政府の内部組織である。共同研究で、説明責任を徹底させる方法を研究した。意見対立の際に中立の第三者に仲介させるのではなく、弁護士を介入させ対決させることによって、裁定者あるいは経営者はより多くの情報を引き出すことが可能になる (両当事者の弁護士が不都合な情報を伏せておうことしても)。この研究では政府内部の業務分担の分析も行い、包括的な責任を負わせるよりも明確に定義した業務を割り当てるほうが良いケース(二兎を追う者は一兎をも得ず)をあきらかにした。

 

 

第5章 ①変貌を遂げる経済学 につづく