『絶望を希望に変える経済学』 アビジット・V・バナジー & エステル・デュフロ著 村井章子訳 (2020年4月17日第1刷)

 

 

 

第2章 ②鮫の口から逃げて [注:移民について]

 

(第2章は①から③まで)

 

①は ↓

 

 

■ 労働者とスイカ

早朝にインドのダッカやデリー、あるいはセネガルの首都ダカールを歩いていると、ときに大きな交差点近くの歩道にしゃがんでいる一群の男たちを見かけることがあるだろう。その多くは、建設現場の日雇い仕事を探している連中だ。

 

社会科学者の目から見ると、驚くのはこうした肉体労働者の市場がひどく小さいことである。デリー周辺には2000万人近くが住んでいるのだから、どの交差点にも職を求める男たちがたむろしていてもおかしくない。だが実際には、注意深くあたりを見回さないとそういう集団は見つからない。

 

求人広告の類いは、デリーでもダカールでも意外に少ないのである。ウェブ上の求人サイトにはたくさんの募集広告が並ぶが、その仕事の大半は農村部の平均的な求職者には手が届かない。一方、ボストンの地下鉄には求人広告があふれている。だがその多くには誰にもクリアできないような厳しい条件や資格が盛り込まれていて、並の応募者では到底突破できない。つまり、企業としては人材はほしいが、誰でもいいわけではないということだ。このことは、労働市場に特有の重要な本質を示している。

 

人を雇うということは、たとえば卸売市場でスイカを仕入れるのとは、すくなくとも二つの点で全然ちがう。第一は、労働者との雇用関係はスイカの仕入れよりずっと長続きすることだ。たとえ労働者の解雇に関する法規制がゆるやかな国の場合でも、誰かをクビにするのはそう簡単ではない。だから企業は、求人に応募してきた人を誰でも雇うようなことはしない。

 

第二に、労働者の質を見きわめるのは、スイカを見きわめるのよりはるかにむずかしい。カール・マルクスがどう言おうと、労働者は小麦や鉄鉱石のような商品とはちがうのである。

 

こうしたわけだから、企業はこれから雇う人間をよく知るために相応の努力をする。高報酬のポストであれば、時間とお金をかけて面接や試験をし、身元照会をする。企業側と求職者側の双方にとってコストがかかるが、これは世界共通の慣行だ。

 

エチオピアでは、ごく一般的な事務職でも数日がかりで面接が行われ、応募者はそのたびに出向かなければならず、予想される月給の10分の1近い費用負担を強いられるという。しかも、採用される可能性はきわめて低い。このため求人があっても応募する人はごく少ない。

 

こうした事情もあって、低賃金の職種の場合、企業は面接などの手続きを省き、信頼できる人物からの推薦に頼る。これは言うまでもなく、標準的な需要と供給の法則に反する。だが、すぐクビにしたくなるような人間を雇ってしまうコストは、あまりに大きいのである。

 

研究者が、応募者を無作為に雇う実験に参加してくれる企業をエチオピアで探したところ、協力してくれる企業を5社見つけるまでに300社以上に当たらなければならなかった。この実験で雇用するのは、とくに技能を必要としない職種である。それでも企業は、何らかの試験や面接を実施したがった。エチオピアで実施された他の調査では、企業の56%がブルーカラーの仕事でも経験者を求めること、またもとの雇用主からの推薦状を要求することがわかった。

 

この例は、いくつかの重要なことを示唆している。第一に、すでに一定期間以上働いている労働者は、新参者との競争において、需要と供給モデルが示すよりはるかに有利である。現職だということは、非常に大きな強みなのである。

 

これだけでも移民にとっては悲観的な材料だが、さらに第二に、企業は供給が潤沢だからと言ってむやみに賃金を下げるわけではないことが上記の例から示唆される。雇用主が出来の悪い労働者に対して与える最大の罰は解雇だが、労働者の側が何としてもクビになりたくないと思うような賃金水準ではないと、解雇にさして効き目はない。

 

かつてジョセフ・スティグリッツは、企業は労働者が容認する最低限の賃金を払いたいわけではない、と鋭い指摘をした。なぜが。古いソ連のジョークで揶揄されたような事態になるのを避けるためだ。 「あいつらは払うふりをしているが、俺たちは働くふりをしている」。 つまり企業は、労働者にしかるべく働いてもらうために相応の賃金を払うということだ。それは、クビになりたくない、なったら困る、と思わせる程度に高い水準である。このような賃金を、経済学者は効率賃金 [efficiency wage] と呼ぶ。その結果、既存労働者に払う賃金と、新参者に払う賃金の間には世間で言われるほど大きな差がないことになる。

 

となると、移民の求職者を雇うインセンティブはますます乏しくなる。それに、そもそも雇用主は企業内の賃金格差があまりに大きくなることには否定的だ。調査でも、労働者が企業内格差を嫌うことがあきらかになっている。そして労働者が不満であれば、職場の生産性は上がらない。以上の理由により、既存労働者は低賃金の移民に即座に取って代わられるわけではない。

 

こうしたわけだから、すでに受入国の労働者が就いている仕事を移民が横取りする余地はあまりない。受入国の労働者がやりたがらない仕事、行きたがらない場所での仕事を移民がやるようになるのは、このためだ。この場合、移民は誰の仕事も奪うわけではない。

 

 

■ 高技能移民の場合

ここまでに紹介した低技能移民が受入国の未熟練労働者と必ずしも競合しないことを示す多くの根拠は、じつは高技能移民には当てはまらないのである。第一に、高技能移民は最低賃金を大きく上回る報酬をもらうので、企業側は効率賃金を払う必要はない。したがって逆説的なことだが、高技能移民は、受入国労働者の賃金水準を押し下げる可能性が高い。

 

第二に、高技能労働者の場合、雇用主は求職者がたしかな技能を身につけているか、必要な資格を取得しているか、注意深く調べる。たとえば多くの病院は看護師を雇う場合、国家試験に合格しているか、経験を積んでいるか、といったことを最初に確認する。外国出身の有資格者を相場より安い賃金で雇えるとなれば、これを逃す手はない。それにいずれにせよ、採用に当たっては面接や試験も行うので、雇用主がよく知らない求職者も、既存のよく知っている労働者と対等の立場に立つことになる。

 

アメリカのある調査では、高度な技能と資格を持つ外国人看護師が1人雇用されると、受入国出身の看護師の数が1~2人減ることがわかったが、これは当然の結果と言えるだろう。こうしたことが起きる原因の一つは、受入国の学生は外国人看護師との競争にさらされる一方で、外国で看護師資格をとる気はないことにある。

 

以上にように、多くの人が支持する高技能移民の受け入れは、じつは受入国にとってはプラス、マイナス両方の影響がある。高技能移民のおかげで受入国の貧しい人々が恩恵を受ける例は少なくない。たとえば、アメリカでは貧困層の住む町で開業する医師の多くが発展途上国出身である。その一方で、技能や資格の面で同等の受入国労働者、たとえば看護師、医師、エンジニア、大学教員などにとっては、雇用の見通しが悪化するという面がある。

 

 

■ 移民の大群?

移民が大挙して押し寄せるという幻想を多くの先進国が抱いているようだ。繰り返しになるが、富裕国に流入した低技能移民が受入国労働者の賃金水準を押し下げるというエビデンスはない。にもかかわらず移民がこれほど政治的に問題となるのは、潜在的移民の数が膨大であって、彼らがどっとなだれ込んできて自国の文化を破壊すると人々が考えるからだ。

 

すでに述べたように、何か悲惨なことが起きてやむなく故郷を捨てる必要に迫られない限り、貧しい人々の大半は故郷にとどまることを選ぶ。彼らがいきなり他国の扉を叩くということはまずない。大方の人は生まれ故郷を好むものだし、同じ国の中で農村部の人々が自国の大都会へ移ることすらめったに起きない。富裕国の人々はこれを直感的に反すると感じるようだが、事実は事実だ。ではいったいなぜ、貧しい国の人々は移民になる道を選ばないのだろうか。

 

 

■   コネクション

すでに見て来たように、移民がまともな仕事に就くのはまずもってむずかしい。例外の一つは、雇用主が親戚か友達だったり、または友達の友達だったり、あるいはすくなくとも同国人だったりするケースだ。このため移民は、すでに定住した親戚知人や同国人のいる場所をめざすことが多い。

 

そうした土地なら仕事も見つけやすいし、落ち着くまでに何かと手助けしてもらえる。そして同じ村から来た移民の就く職業は、時間の経過とともに似通ってくる。たとえばある村から来た移民が腕利きの大工になると、次の世代の移民はこの大工の世話になるので、やはり大工になるケースが多い。同郷のよしみというものは強力なのである。

 

このことは、難民の定住にも当てはまる。就労できる可能性が高いのは、同じ国出身の難民がすでに定着している土地に送られた難民だ。昔から定住している難民は、新しく来た難民の知り合いというわけではないが、やはり助けてやらなければならないという気持ちに駆られ、何かと便宜を図ってくれる。

 

では、受入国に何のコネクションも持たない移民はどうなるのか。この場合、非常に不利になることがはっきりとしている。このとき、推薦状を携えている人が俄然有利になり、それ以外の人のチャンスを奪うということが起こりうる。雇用主は推薦状を持っている人を優先的に雇い、持っていない人に門前払いを喰わす。そのことをよく知っている人たちは、何とかして推薦状をもらおうとする。

 

こうした状況に陥った市場のことを崩壊した市場あるいはレモン市場と呼ぶ。レモンとは、腐っていても外からはわからない粗悪な財のことである。とくに外見からは判断できない粗悪な中古車をレモンと呼ぶ。

 

1970年にまだ博士号をとったばかりのジョージ・マカロフは 「レモン市場」 と題する論文を発表し、中古車市場はいずれ成立しなくなると指摘した。中古車の買い手は、実際に購入して乗ってみるまで粗悪かどうかがわからない。そこにつけ込んで粗悪品が出回る危険性が高い。それを知っている買い手は、できるだけ安く買おうとする。すると、中古車の価格水準が全体的に下がるため、良質な中古車の売り手は市場に出さなくなる (友人などに売る)。その結果、中古車市場に売りに出されるのは、売り手が粗悪だとわかっている車ばかりになるわけだ。

 

同じことが、労働市場でも起きる。質の悪い労働者をつかまされることを恐れる雇用主は、賃金をできるだけ安くしようとする。すると推薦状を持っている人はこれを嫌って応募しないので、市場にいるのは推薦状を持たない求職者ばかりになる。こうして最も粗悪なものしか市場に出回らない状況になるプロセスを逆選択 [adverse selection] と言う。

 

コネクションやネットワークは人々を支える大切なものだが、一部の人はそれにアクセスでき、一部の人はできないという状況は、市場を崩壊させることになりかねない。市場は、誰もコネクションを持たない状況では非常にうまく機能したはずである。

 

つまり、競争条件が平等であれば市場は機能する。だが一部の人のみがコネクションを持つ状況では、競争条件は不平等になる。その結果、ほとんどの人が職にありつけないという結果を招くことになる。

 

 

■   故郷

アビジットはデリーのスラム街の住人に質問調査をしたことがある。都会に住むメリットは何か、まず質問した。子どもによい教育を受けさせる機会が多い、医療が充実している、仕事が見つかりやすい、など多くの点が挙がった。

 

反対に悪い点は、環境だという。これは驚くには当たらない。デリーの大気汚染は世界でも最悪と言っていいほどだ。住居環境に関して最優先で改善してほしいことは何かという質問に対しては、69%が下水道の整備を、54%がゴミの収集を挙げた。下水の不備と放置されたゴミは、インドでもどこでもスラム街の悪臭の元凶になっている。

 

当然のことながら、スラムに住む人たちは家族を連れてくるのをためらう。むしろ、スラムが耐えられなくなると、彼らは故郷に帰る。ラジャスタン州の農村部では、村人の多くがデリーに出稼ぎに行くが、月に一度は村へ戻ってくる。デリーに移住して3か月以上住み続ける村民は10人に1人ほどだ。こうしたわけだから、出稼ぎ者の多くが村からそう離れていない都会を選ぶことになるし、選ぶ仕事も限られ、身につく技能も限られることになる。

 

だが、なぜこの人たちはスラムに、あるいはもっとひどいところに住まなければならないのか。もうすこしまともなとことはないのか。ないのである。たとえもうすこし高い家賃を払える場合でも、多くの発展途上国では住居のグレードが極端に悪いか極端によいか、どちらかしかない。スラムの上のランクとなると、もう高級すぎて手が届かない。

 

こうなったのには、理由がある。発展途上国の都市の多くはインフラが未整備で、全住民には行き渡っていない。最近発表されたある報告によると、インドだけで2016~40年に4.5兆ドルのインフラ投資が必要だという。ケニアは2230億ドル、メキシコは1.1兆ドルだ。このためほとんどの都市ではごく一部だけのインフラが整備され、そこでは土地に天文学的な値段がついている。

 

投資が絶対的に不足しているため、残りの区域の開発は行き当たりばったりに行われ、貧しい人々はたまたま空いている土地に住み着く。いつ強制退去させられるかわからないので、雨風だけはなんとか凌げる程度の間に合わせの掘建て小屋を建てる。その集合体は、まるで都会の顔の張り付いた傷跡のようだ。これが、第三世界のスラムである。

 

事態を一段と悪化させるのが、都市計画当局である。経済学者エドワード・グレイザーがすぐれた著書 『都市は人類最高の発明である』 [邦訳:NTT出版] の中で指摘するように、都市計画当局は中流層向けの高層アパートを都市部に高密度で建設することをいやがり、 「田園都市」 をめざそうとする。

 

たとえばインドでは、高層ビルの建築制限が異常に厳しく、パリ、ニューヨーク、シンガポールより厳格だ。その結果、インドのほとんどの都市で郊外が無秩序に拡がり、通勤時間が長くなるという弊害が出ている。インドほどではないが、同じ問題が中国などでも見られる。

 

低所得しか望めない移民にとって、こうした悪しき政策の組み合わせはまったく好ましくない二者択一を出現させる。うまいことスラムに潜り込むか。郊外に住処を見つけて長時間かけて通勤するか。どちらもできなかったら、橋の下で寝るか、職場の床で寝たり、人力車やトラックの下で寝たり、店のひさしのある歩道で寝たりする。これだけでも気が滅入るが、さらにすでに述べた理由から、低技能移民はすくなくとも最初は、誰もがやりたがらない仕事にしかありつけない。もし読者がどこか見知らぬ土地に放り出され、ほかに選択肢がないとなったら、そういう仕事もするだろう。そういうことを敢えてできるのは、目先の苦痛と困難に目をつぶり、皿洗いからレストラン・チェーン経営者になる夢を見られる移民だけである。

 

生まれ故郷の魅力、心地よく暮らせるというだけではない。貧しい人々の生活は、多くの場合きわめて脆い。所得は不安定だし、いつ病気になるかわからない。だから、いざというときに助けてくれる人が近くにいることが大切になる。

 

もしあなたが故郷を出たら、ネットワークへのアクセスは切れてしまう。このため、最も絶望的な状況に置かれた人々か、そうしたリスクを冒せるほどゆとりのある人だけが、敢えて故郷を離れる決断を下すことになる。故郷の魅力と人的ネットワークは、国境を超える移民の場合にも移住を思いとどまらせる要因になる。いやむしろ、国内の場合よりも強力な要因になる。国を出るとき、その多くは家族や愛するものや慣れ親しんだすべてのものを捨てなければならない。そしてたいていは、長いこともう会えなくなる。

 

 

■   家族の絆

伝統的な共同体の生活の形態も、移住を思いとどまらせる重要な要因になる。カリブ出身のアーサー・ルイスは1954年に発表した著名な論文の中で、次のような明快な説明をしている。ルイスは開発経済学のパイオニアの1人で、1979年にノーベル経済学賞を受賞した。

 

あなたが都会へ行けば週100ドルの仕事に就けるとしよう。村には仕事はないが、家族でやっている農園で働けば、農園の収入の分け前をもらうことができる。農園の収入は週500ドルだから、4人兄弟で分ければ週125ドルになる。

 

この場合、都会へ行く必要がどこにあるだろうか。ここでルイスが鋭い洞察を示す。都会へ行くか行かないかは、農園でどの程度必要とされるかに拠るというのだ。あなたがいてもいなくても農園の収入が週500ドルであれば、あなたが都会で働くことによって、家族の収入は100ドル増えるはずである。だがこの場合、あなたは都会へ行かないだろう。

 

なぜなら、あなたは結局その100ドルしか得られず、3人の兄が500ドルを山分けすることになると考えるからだ。ルイスが言いたいのは、こうだ。家族の収入が600ドルになるから1人150ドルずつもらうことにしよう、と取り決めることは可能である。だがそうはうまくいくまい。いない人との約束は簡単に忘れられてしまう。だから結局あなたは村に残る。

 

こうした事情から、農村部の労働人口が国内外を問わず都市部の労働人口に合流するスピードがきわめて遅い、とルイスは考える。つまり、ルイスのシナリオでは、移住はなかなか起きない。

 

ここでもう一つ、一般的な問題として注目したいのは、家族というネットワークの特殊性である。家族のネットワークは家族固有の問題を解決するには役立つが、社会にとって好ましいことを推進するとは限らない。たとえば、高齢になって見捨てられることを恐れる両親が、意図的に子どもたちに教育機会を与えないということが起こりうる。教育を受けていなければ都会で働く選択肢は失われるからだ。

 

デリーからさほど遠くないハリヤナ州で、研究者が地元企業の協力を得て、バックオフィス業務の求人を目的とする調査を行ったことがある。研究者と企業のチームは同州の村を訪れ、求人情報を提供した。この求人に応募するには二つの条件がある。都会へ移住し、高校教育を受けることだ。

 

女の子に関する限り、親の反応はきわめて好意的だった。村に残る女の子に比べ、よい教育を受け、よい相手と結婚し、よい暮らしを送れるだろうと歓迎した。だが男の子の場合には、ちがった。男の子だって都会へ行けば、女の子と同じくよい教育を受け、報酬のよい仕事に就くチャンスが増えるはずだ。だが男の子の親は、息子には家にとどまって自分たちの老後の面倒をみてほしいと願う。そのため、高い教育を受けさせたがらない。息子を手元に置いておくために、息子の条件を敢えて不利にすることを選ぶ。

 

 

■   ネパール人の選択

先ほど、バングラデシュの村で11.50ドルの現金(交通費と当座の食費)を提供されて都会に出稼ぎに行った人々の多くは、仕事を見つけて暮らし向きがよくなったことを紹介した。となれば、村の人たちはよろこんで11.50ドルを払ってチャンスをつかみに行くはずである。だが実際には、そう簡単な話ではない。万一都会で仕事を見つけられず、無一文で村へ戻ることになったら、自己負担した交通費や食費は丸損になってしまう。大方の人はリスクを嫌うが、ぎりぎりの生活をしている人はなおのことである。何かあればほんとうに餓死しかねないからだ。

 

だが都会へいくために節約して11.50ドルを積み立てておき、それから行くのであれば、仮に仕事が見つからず村へ帰ることになっても、貯金せず都会にいかなかった場合と比べ、事態はとくに悪くはならない。ではなぜ出稼ぎをしようとしないのか。一つ考えられる理由は、リスクを過大評価していることである。

 

今日では、ネパール人男性で生産年齢に達している人の5分の1以上が外国へ一度以上行ったことがある。その多くが出稼ぎだ。マレーシア、カタール、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)などで、多くの場合数年にわたって働く、職を転々とするのではなく、一社と雇用契約を結んで働く例が多い。

 

この状況では、ネパール人男性は移民として働くコストとメリットや雇用の見通しについて、多くの情報を得られると考えてよいだろう。ところがネパール政府の当局者によると、移民として出稼ぎにいく人の多くが受入国の事情をよくわかっていないという。とくに、収入に過大な期待を抱きがちだし、住居環境の悲惨さも理解していないという。ほんとうにそうなのか。もしそうだとしたら、それはなぜなのか。私たちの研究室にいる大学院生のマヘショア・シュレスタは、実態を調査することにした。

 

調査の結果、移民希望者はたしかに予想収入をかなり楽観的に見積もっていることがわかった、具体的には、おおむね25%も過大評価していたのである。理由はいくつもあるが、斡旋業者が嘘をついている可能性がかなり高い。

 

しかしそれよりも重要なのは、彼らの多くが外国で死ぬ可能性を大幅に悲観的に見込んでいたことである。平均的な移民希望者は、移民1000人に対して2年間で10人が異国で死ぬと予想していた。しかし実際には、1.3人である。

 

そこでマヘショアは、移民希望者の中から無作為に抽出して、第一のグループには実際の賃金水準を、第二のグループには実際の死亡数を、第三のグループには両方の情報を提供した。

 

すると、どのグループでも情報の効果がきわめて大きいことがたしかめられた。数週間後に確認したところ、第一のグループは情報提供のなかったグループに比べて国内にとどまる率が高まり、第二のグループは国を出る率が高まった。さらに、当初の見積もりが誤差は死亡数のほうが大きかったため、第三のグループでも国を出る率が高まった。このように、ネパール政府当局者の懸念は一部は当たっていたものの、実際には情報に無知だったせいで移住を断念していた人のほうが多かったのである。

 

ではなぜ人々は死亡リスクを過大評価したのだろうか。マヘショアの示した答えは、こうだ。ある村の出身者がたまたま外国で死んだとしよう。すると、その村からその国への移民は激減する傾向がある。外国への移民を考える人たちが、これから行く国の事情に敏感になるのは当然のことだ。問題は、メディアが報道をする際に、ネパールからの移民がどこそこで死んだと報じるだけで、その国に移民が何人いるのか、100人なのか1000人なのかは報じないことである。するとこの記事を読んだ人は、1人の死に対して過剰反応をすることになりやすい。

 

ネパールでは外国への移民に関する情報が入手しやすいし、まともな斡旋企業も多数おり、実際に移民に行く人や戻ってくる人もたくさんいる。それでもこのような誤った思い込みが生じるのだから、信頼性の高い情報が入手できない多くの発展途上国ではどういうことになるのか、憂慮される。

 

あまりに悲観的な情報が出回れば、暮らし向きが楽になる可能性を多くの人が捨て去ることになる。しかしあまりに悲観的な情報が出回れば、大勢が無謀に移民に駆り立てられることになるだろう。このようなバイアスが生じるのはなぜだろうか。

 

③につづく