『貧困の経済学 上』 マーティン・ラヴァリオン著 柳原透監訳 (2018年9月20日第1刷)

 

 

 

◇ 第Ⅰ部 貧困の思想史 ◇

 

 

 

第1章 ① 貧困のない世界という考えの起源 (第1章①から④まで)

 

 

 

第1章では、貧困と政策についての議論に見られる類似と変遷の両方を20世紀半ばまで跡づける。貧困に関するあらゆる考えの歴史ではなく、貧困の経済学と貧困政策への合意に関する論調にのみ焦点を当てる。

 

 

1・1 過去200年の絶対貧困との戦いの進展

 

 

1人当たり国内総生産(GDP)は、一国の平均所得の指標として最も広く用いられている。アンガス・マディソンは1820年に遡る世界の1人当たりGDPを推計した(Maddison 1995)。GDPはしかし、社会の中での所得分配、すなわち所得不平等の程度に関しては何も語らない。フランソワ・ブルギニョンとクリスチャン・モリソンは、1820年の世界人口における84%が、彼らが「極度の貧困」と呼ぶ状態にあったと推計した(Bourguignon and Morrisson 2002)。

 

ブルギニョンとモリソンは、彼らの貧困線が時間を通して一定の実質値を持つように試みた。彼らは、低所得国に多く用いられていた(1985年購買力平価で)1日1ドルという貧困線を用いた1992年の貧困率の推計値に、彼らの貧困線による推計値が一致するようにした。200年前、世界人口の大多数はこの基準において極度の貧困とみなされる状態にあったようである。1992年までにその割合は24%までに低下した。

 

「先進国」と「途上国」という分類は、1800年頃の世界において今日におけるようには妥当しなかったことは明らかである。ブルギニョンとモリソンのデータベースと同じ貧困線を用いて、1820年まで遡って、彼らの研究に含まれている今日の先進国の人口の何パーセントが「極度の貧困」状態にあったかを容易に計算することができる。図1.1にその結果が示されている。

貧困の経済学 上 図1.1

 

19世紀初めにおいて、今日の先進国の大多数は世界平均よりずっと低い貧困率からスタートした。日本は例外であった。このデータは、1820年においてイギリスとアメリカの人口の40%、ヨーロッパの人口の50%が、彼らの定義による極端な貧困の状態にあったことを窺わせる。

 

これらの計算結果によれば、19世紀初めから半ばにかけて、今日の先進国の大多数での貧困率は、発展途上国の中でも貧しい南アジアやサハラ以南アフリカの20世紀末の貧困率と同じくらいであった。イギリス、ヨーロッパ、アメリカで、19世紀と20世紀初めに絶対貧困者の割合の大幅な低下を達成した。いったん極めて低い水準となると、その後の進展はゆっくりとしたものとなり、今日、先進国においては、極端な貧困とみなされる状態は実際上もはや存在しない。

 

図1.1に関して特に重要な但し書きが2つある。第1に、ブルギニョンとモリソンが彼らの貧困線が時間を通して実質で一定となるように試みたということは、彼らの貧困線は絶対貧困の推計の一例であることを意味する。それは、平均所得の上昇に伴って貧困線も上昇する相対貧困の推計とは明確に異なっている。絶対貧困線か相対貧困線かというのはその金銭的価値についてであり、金銭表示での所得または消費との比較に用いられる。第Ⅱ部で詳しく、金銭表示の貧困線はある水準の「厚生」(welfare)と対応すると概念上は考えるべきであると主張する。ある人が他の人よりも良い状態にあるかどうかを決めるのは、「厚生」であって所得ではないからである。言い換えれば、「厚生」で見る限り、絶対貧困しかありえない。しかしながら、それを所得で表すときには、相対貧困線が必要とされるのであろうし、相対貧困が豊かな国々から消えていないことは確かである。

 

第2に、19世紀初め以降の貧困に対する全般の進展は、それに先立つ進展の連続を示すと捉えられていない。1820年以前に大きな貧困削減があったという推測とは相いれない見解を歴史記録に見出すことができる。いくつかをここで紹介する。

 

・1820年前には、何世紀にもわたり平均所得の成長はわずかであった。マディソンの推計では、紀元1000年から1820年の間の1人当たりGDPの成長率はわずか0.05%であった(その820年間で50%の増加にすぎなかった)ことが示されている(Maddison 2005)

 

・1820年以前の200年またはそれ以上の間、不平等を増大させる力が作用していた。新植民地でのヨーロッパ人による厳しい搾取と先住民の多大な被害を否定することはできない。砂糖や綿花のような新たに発見された一次産品の生産と貿易のブームがあり、これがヨーロッパ人とアメリカ人のエリートの莫大な富を作り出した。この富は、略奪行為、暴力による食料や土地の押収、そして最も根本の財産権の剥奪を意味する奴隷使用に基づいていた。1650年から1800年の砂糖ブームの時期において、750万人もの人がアフリカから西半球へと奴隷として連れ去れた。植民地政策は不公平な経済・政治制度を制定し、ラテンアメリカなどの地域の発展に長く影響を及ぼすこととなった。

 

・経済搾取に加えて、新しく到着したヨーロッパ人の征服者は、先住民がほとんど抵抗力を持たない致死の疾病をもたらし、結果として大量死を引き起こした。例えば、1570年から1620年の間に、ペルーの人口は征服以前と比較して半分にまで減少した。そして、宗主国に住んでいた貧しい人々にはほとんど生活の改善はなかった。19世紀初め以前の200年あるいはそれ以上の期間にわたり世界の貧困者数とおそらくは貧困率(貧困線未満の人口の比率)の増加を引き起こしていた、という推測は妥当であろう。

 

 

健康、栄養、就学に関する歴史統計もまた、19世紀初め以来の今日の先進国でなされた達成がどれほど大きかったかを明らかにしている。今日のイングランドにおける出生時余命は約80歳であるが、19世紀初めにおいては約40歳であり、それは1950年代におけるインドと同じであった。20世紀初頭のイギリスやヨーロッパの乳幼児死亡率は、今日のほとんどの貧しい国よりも高かったのである。

 

1800年頃、ヨーロッパと北米における「貧困層」は、富を持たない人々であり、その生存を非熟練労働の供給に頼っていた。もっと複雑な形態の貧困は現代になって出現したものである。20世紀以前のヨーロッパと北米においては、貧しいことと労働者階級に属することは同じことであった。

 

 

 

1・2 前近代における貧困の考え

 

 

■ 古代

近代よりも前には、貧困は、法、税、公共支出のような世俗世界における問題としては一般に考えられていなかった。前近代の分配の正義における主要な概念は、能力主義を強調した。これ(実力主義)は紀元前350年頃のギリシャの哲学者で科学者であるアリストテレスの著作(とりわけ『ニコマコス倫理学』と『政治学』)にその起源があった。それによれば、最も技能のある候補者だけが公共部門に選ばれるべきであるとされ、アリストテレスの正義の概念は大きな影響力を持った。それは、社会の根本の不平等に対して挑戦することはなかった。

 

紀元前500年頃、孔子は良い政府が避けるべきである「6つの不幸」の1つとして貧困をあげていた(他の5つは、早死、病気、惨めさ、酷い容姿、虚弱である)。しかしながら、西洋と同じく、富の不平等と関係する慢性貧困は関心の対象ではなかった。関心の対象は、何であれ調和のある社会秩序への脅威となるものであった。孔子にとって、社会の秩序が維持される限りは、「貧困」は脅威ではなかった。

 

歴史の大部分において、飢饉のような不安定化を引き起こしかねない一時の貧困に対処すること以上には、政府は貧困削減においてほとんど直接の役割を果たさなかった。民間の慈善行為のほうが、歴史上おそらくもっと重要であった。

 

アリストテレスの1000年後、トマス・アクィナス(その思想がローマ・カトリック教会に多大な影響を与えた)もまた、最低限の生活水準の保証への国家の責任に関して何ら示唆することがないという点で、依然としてアリストテレスと同様の分配の正義に関する概念を持っていた。

 

 

■ 重商主義

18世紀末に先立ついくらかの期間において、経済思想を支配した学説は、国内外の貧困は社会にとって良いもの――自国の経済にとって不可欠なもの――とみなしていた。強力な世界で競争力のある経済を作り出すよう、労働者に働く誘因を与え賃金を低水準に保つ上で、貧困は不可欠であるとみなされていた。今日においては、貧しい国でも豊かな国でも、政府には貧困に対する戦いにおいて重要な役割があることが広範に合意されている。

 

今日の豊かな国々がみじめな貧困に陥っていた16-18世紀の多くの時期において、主要な経済思想は重商主義であった。その政策目標は、何よりもまず、その国の「輸出余剰」すなわち貿易収支――それは自国の未来の繁栄と力に等しいとみなされていた――を増やすことであった。世界全体としての輸出と輸入は等しいので、貿易収支は世界全体でゼロである。言い換えれば、自国にとっての貿易収支のプラスは少なくとも1つの他国のマイナスを必ず伴う。

 

貿易収支を最大化する主要な手段は、自国での生産のための安価な投入物すなわち安価な原材料(そのために植民地は有益であった)と安価な、それゆえ貧しい、自国の労働力であった。貧困は国の経済発展のための不可欠な前提条件とみなされていた。重商主義者の考えにおいては、貧しい人々は(経済発展という)目的のための手段であった。彼らにとって飢えは勤労を促進するものであり、飢えがないことはその逆(勤労を阻害するもの)であった。

 

この時代に広汎に支持されていたと思われる考えは、非熟練労働者の労働の供給曲線の傾きはマイナスであるというものであった。これはエドガー・ファーネスが後に「貧困の効用」と名付けたものである(Box1.3は省略)。近代経済学の言葉では、Box1.4で説明されているように、余暇への需要の所得効果は代替効果を上回っているとみなされていた、ということができる(Box1.4は省略)。

 

貧困への一般の見方の多くは、高い賃金を受け取ると、労働者は余暇と悪行に浪費するだけというものである。労働供給曲線が右下がりであるという考えは、貧困の主要な原因を貧しい人々の行動に見出す長年にわたる考え方の一例である。もし貧しい人々に怠け心がないならば、高い賃金と勤勉さや貯蓄を組み合わせることで貧困から抜け出すことができるであろう、という考えである。行動面の別の説明もなされてきた。その1つは、貧しい人々は貧しさから抜け出そうとする意欲がないから貧しいと説く。そこで前提とされているのは、意欲の欠如はその人々に内在する属性であるということであった。その意欲の欠如は、自身や子どもたちにとっての機会が限られている人々が直面する現実に対処するために採られた心理上の適応と見られることはなかった。

 

貧しい人々に高い賃金を与えることに抵抗する人々は、政府による貧しい労働者階級に対する直接の所得支援にも強く反対した。彼らの懸念は、そのような貧困対策が勤労意欲を阻害し、そのため賃金率を増加させることにあった。

 

貧困対策が勤労意欲を減らし賃金を押し下げるとしても、それが間違った方針であるとは言えない。そのような貧困対策は、最貧層を益する再分配政策として必要とされるかもしれない。この立場は、完全雇用あるいはそれに近い経済においては、貧困政策が総労働供給を減らす程度に応じて、納税者と雇用主の双方に賃金上昇というマイナスをもたらすことを認める。

 

しかし、貧困政策の「波及効果」にはプラスのものもある。賃金上昇は、所得移転を受けない人を含め貧しい人々への利益を高める。貧困政策の支持者は、このプラスは上述のマイナスを上回ると主張する。そのような主張は、貧しい人々への所得移転、そして再分配全般の提唱として、厚生経済学上で正当と認められうる。

 

再分配のための所得移転に反対する別の長年にわたる主張は、勤労の美徳に向けられている。これらは、個人を超える道徳上の美徳として見られている。貧しい人々にとって本当は何が良いかの道徳判断のほうが、その人々自身の選択に優越するとされる。これは、貧困測定や貧困政策に関する議論でしばしば見られるパターナリズムの一例である。

 

重商主義者の考えにおいて、将来にわたって続く安価な労働供給は、経済発展に不可欠なものとみなされ大家族が推奨され、勤勉な勤労習慣が幼少期から教え込まなければならなかった。高い賃金と同じように、あまりに長い学校教育も、現在と将来の勤労意欲を阻害するものとみなされた。マンデヴィルの見解では、労働する(したがって貧しい)親の子どもたちにとって実現する唯一の将来は、彼らもまた労働する(したがって貧しい)ことであった。学校教育は社会にとって浪費と見られた。

 

経済発展をこのように見ていては、貧困削減の見通しはないに等しい。労働者階級の子どもたちの地位の上昇の途はないに等しかった。彼らは、貧しく生まれ、貧しいままである。

 

進歩主義の現代においては、マンデヴィルの見解にショックを受けるかもしれない。しかしそこには冷酷な真実の要素があるかもしれない。労働者階級の子どもに対してわずかな学校教育を行っても無駄であるといいう彼の主張は、現代の経済学での「貧困の罠」のモデルに合致する。

 

貧しい人々――多くは労働者階級である――は、貧困から確実に抜け出しうるための閾値以下の低水準の富しか持たない。人的資本の形での富をわずかに増やしても、閾値を超えるに十分でないならば、継続する利益をもたらすことはなく、やがては元の貧困状態に戻ってしまう。そうならないためには、就学年数を大幅に高めることが必要であろう。学校教育に対するマンデヴィルの見解は、今日の発展途上国の貧しい子どもたちには驚くべきものではないだろう。

 

(ムンバイのスラムのゴミ捨て場でゴミ拾いをして生活している少年のエピソード)少年はスラムで運営される民間学校の英語の放課後授業で何日かを過ごす機会があり、丸暗記学習の後で「きらきら星」の歌を歌えるようになった。しかしその後に、食べ物を得るために働くのに時間を使うほうがよいと決めた。この少年が出席する余裕のある程度の少しの時間の学校教育は、彼が貧困から脱するためにはあまりにも不十分であったと解釈できるだろう。彼は直面する飢えに取り組んだほうがよい。そうすれば生きていけるであろう。貧しいままであるが。