心事の棚卸 -154ページ目

ひょっとして大物?

水曜日


今、仕事で引継ぎ業務をしているのですが。


僕が「やめます」と伝えると、いろんな反応が返ってきます。


「えっ!」とか「あら」とか。

このへんの感嘆詞系の反応が一番多い。


そして、ざんねんがる、あるいは、応援してくれる。


昨日はちょっと珍しい反応をされました。

それは、「そんな気はしてた」というもの。


その方、僕から一切転職をほのめかす言葉は聞いていなかったにもかかわらず、

予想はしていたらしい。


ここにおさまるウツワではないと思っていたとかなんとか、

それっぽいことをうにゃむにゃと仰っていました。


ほお。


ちょっとそんな気になっちゃうよ、僕?


先週の水曜日に大学時代の後輩と飲みに行ったときも、

「先輩は大物になりそう」って言われちゃって、

えへへ、

ちょっといい気分。


そんな気になっちゃうぜ、僕?


別に「俺は大物だ!」って思っていても

誰に迷惑をかけるわけでもないから、そう思っていてソンはないのかな。

漱石から『経営学』へ

火曜日


同時期に入社した人が辞めた。


といっても出向先に転籍というかたちなので、仕事自体はかわらない。


問題は彼がちっとも前向きじゃないこと。


「ほんまにいや」


これを何度くりかえしていたことか。


なんだかなぁ。


本来なら心機一転のチャンスなんだけどなぁ。


「にげるのはいや」


わかる。


「でも、つづけるのもいや」


わかる。


でも、なんだかなぁ。



選んだ道に正解も不正解もないわけです。


すべてが正解かもしれないし、すべてが不正解かもしれない。


もう少し正確にいうと、すべてが正解になりうるし、不正解になりうる。


すべては自分の意思しだい。解釈しだい。


だったら、選んでしまったらなら、前向きになっといたほうがトクじゃない?っていうわけ。


そもそも前向きになれないなら選ばないほうがいいのは事実。


でも、選んでしまったらなら、ねぇ?


歩まなきゃいけない道なら、ねぇ?


前向きになっておいたらいいじゃないの。



ただし!


たしかに自分の「思い」なり「考え方」なり「受けとめ方」を、


自分で意思で変えるのは、きっととてもむずかしい。


そんなことできる人いるんかな。


僕のような凡人にそんな鉄人のワザはムリなので、僕は外部からの影響にたよります。


一番たよるのは、本。


読書。


読書によって頭の風通しをよくします。


そしたら空気も入れ替わり、新しい視点で外の世界を見れるように少しはなる、かもしれない。


かもしれない。


他にはもちろん、人と話すのもいい。


ただし、自分で意識的に意思を変えていくのに便利なツールはやっぱり、本。


なんせ数年前は夏目漱石に興奮していた僕が、最近夢中になった本は小倉昌男の『経営学』ですからね!


変われば変わるもの。


いや、少しちがうかな。


世界が広がったんですね、きっと。


これ、成長。

いろんな仕事人

毎日書くつもり、ではいたんですが。


まあ、仕方ない。



この週末について。


土曜日。


むかしイタリアで知り合った楽器職人さんの工房へ、お別れのごあいさつに伺う。


1年半ぶりぐらいの訪問だったが、おたがいまったく自然にお話することができた。


もともと波長が近しいのでしょう。



その方は、作務衣のよく似合う、クマさんのようなあたたかな存在感のある人。


警察官や学校の先生などを歴任して、今はヴァイオリン職人。


定年を前にしての転進。


今は一日中木を削って、たまにバイクを駆って旅に出たり、訪問客の応対をしたり。


内面的にはきっといろいろあるとは思うけど、素敵なライフスタイルだな、と思う。



僕らの結婚をご報告すると、たいそう喜んでくれた。


「いいですねぇ」をしきりに繰り返していた。


そう言われると、うれしくなる。



日曜日。


結婚する会場の人たちと打ち合わせ。


プランナーさん、シェフ、パティシエ。


的確な仕事の段取りや親身なアドバイスに感謝。


みんな、それぞれの仕事のプロフェッショナル。


いいなぁ。



僕も・・・。



こういう文章になっていることが、じつはそれだけでちょっとくやしいことなんだけど、


まあ、今は自分で自分をゆるす。


材料だ、材料だ、材料だ。