みなさんこんにちは、チャクラ活性音楽を聞いていて、気が付いたら居眠りしていた、緒川賢治です
本日は、3回くらいはアップしようかと思っていますので、ひたすらつぶやきます
下書きが溜まっていく一方ですが、とりあえず思いついたネタが3つあるので、順を追ってアップしていきますね
まずは、「幸せとは何ぞや」、につながるお話です
今の自分は幸せなのかどうなのか・・・・・
これはですね、もしも少々不便でも何とかして生きていけている状態であるのならば、幸せだと思わないといけません
もしくは、不満ばかり持っている、その不満が原因で不幸なのではなく、そう思うことが不幸であると思わないといけません
『不満を持つ自分自身の心が不幸である』
基本の一つ、良し!
どんな時に幸せを感じますか?
裕福になりたい
美味しいものを食べたい
だから、頑張って成功したい
しかし、頑張っても頑張っても、裕福にならなかったら、もしかしたら時々はできていたかもしれない、美味しいものや贅沢のひとときすら、失っています
リア充になるためにまずは形から・・・・・
ということで、無理に楽しんでいるように見せかける
いや、もしそこに幸せがあるのならば、努力や達成とは違う道に進んでいます
しかし、深く鮮明なイメージが、現実化するのです、という教えがあります
イメージが何の目的も必要性も無しに、現実化するというマジックなんです?
ゆたーっとしている時、楽しく頑張っている時、または生きている実感、人生の苦労と楽しみ、そういったのを全部ひっくるめて、ある時は幸せだと思うし、辛い日々だとも思うし、感じ方の問題ですね
でも、頑張って何かを達成するという膨大な努力があって、その結果として裕福な暮らしができるかもしれない、という大きな可能性はあります
何かを達成する、しかし、それは生半可ではいけない
そこで、引き寄せの法則や潜在意識の法則などが提唱されます
思えば叶う、ということですね
これは、密教の祈願でも同じです
ただ、努力をした結果によるという前提がある場合があるので、もしもそれを言うならば、引き寄せや祈願の役割が半減します
しかし、努力しないでも成功するという教えを合わせると、とんでもなく素晴らしい教えになりますね
有難い、まさに、待ってました、というような教えです
イメージというものの恐ろしさ
まあ、希望を持って、イメージを楽しむというのは良いことですが
おっと、かなり話が脱線したまま長々と話していることに気づきました
えー、何を言おうとしていたのかというと、幸せになりたいというその幸せと、そのために何かを達成したいというのが、全くの別物だということです
どちらかというと、美味しいものを食べたり、良いものを着たり、豪邸に住んだり、優雅に遊んだり、というような幸せは、その場というか、感じ方で言うと、ゆったりとした一面ですね
高級店で美味しいものをせかせか食べませんし、良いものを適当に着て鏡も見ないということはありませんし、豪邸を買ってもバタバタ帰ってきてはすぐに出かけるというのではありませんし、遊んでバンバンお金を使いまくるだけというのもありませんし、まずその時点で、不幸であるか、不幸が待っている状態です
ならば、心が幸せであること、とも言いますが、苦しい生活では辛い思いをすることが多いです
だから、裕福さというのが幸せのキーワードとなるのですが、それは、条件付きの幸せとなりますね
何々があるから幸せ、何々だから幸せ、という、何々が無くなってしまったら不幸だという幸せです
では、その裕福な暮らしを求めて今はひたすら努力して頑張っているとしましょう
「今は、下積みの時期である。私は成功するまでは、何も望まない」
そして気が付けば30年くらい過ぎていたとすると・・・・
不幸ということであり、もしも、幸福の基準が頑張ることにあるのならば、幸せでもありますが、ただ、幸せになりたいがために頑張っていたのに、その頑張りが実らなかったら不幸だった場合、たくさんの時間が無駄になったという考え方もできますね
では、努力もしながら、時には楽しい幸せなひと時を過ごしていたとしたらどうでしょう
まあ、それならば、苦楽が八割二割くらいで、まずまずバランスが取れています
ただ、実際世の中なかなかうまくいくもんじゃないです
だから、「成功するまでは不幸である」状況になります
そこでですね、私が大切にしている考えですが、これです
何でも良いので、生きていることで何か感じるものがあれば些細なことでも興味を持ったり楽しんで見たりすることです
『小さな幸せを大きく喜ぶ』
基本の二つ目、良し!
まあ、このですね、幸せになりたいということに向かって努力をするという、達成しても努力を怠ると衰える幸せとか、思って待っていればやってくるという、他力本願に待つ幸せとか、そこで幸せというものや生きがいというものを選択してしまうとですね、実は、もっともっと奥深い、なかなか気づかない素晴らしい出来事や事実というものに触れることなく一生を終えてしまうんですね
小さな出来事、風が吹くタイミングや音や感触とか、道端に咲いている小さな花とか、ごみをあさっているカラスの動きとか鳴き声とか、そういったことにでもたくさん感動できます
雨が降ってくるまでの過程を想像しただけで、その素晴らしさに感動できます
そしてですね、人の間違ったおせっかいにも感動できます
喉が渇いて我慢できなくてジュースを買って美味しかったら、最高に幸せですよね
そして、その時の、「ぷはーっ!!」の中に、とてつもない幸せの基本があります
仕事が終わった後の、週末のビールは最高とかですね
コンビニで買った焼き鳥を四畳半の部屋で食べても、高級焼き鳥店でコースで食べても、どちらも優劣つけがたいようなものです、幸せというのは
そこで、達成したい、幸せになりたい、の2つの隔たりがあるとすると、ちょっとバランスが取れていませんね
達成したいができなくても幸せという心
そして、人を羨ましがっても、幸せです
ただ、愚痴が問題ですね
笑って言える愚痴と、自虐ネタにできる愚痴は、幸せです
しかし、もしもその裏側に隠れた被害者意識があるのならば、不幸の種です
ならば、愚痴を言わないためには、達成と成功ですかね
そして、始まります、成功するまでは全てを捨てるという不幸が
ただ、大事なことがあります
『幸不幸を問わずに、何かを頑張って生きているということはとても大事です』
基本の三つめ、良し!
しかし、最終的には、自分が何を幸せとするかです
そこで、プライドを捨てる、バカになる発想がきます
それが卑屈なものでなく、自信に満ちたものならば、その幸せは7割方完成した幸せといえるでしょうかね
いつもお読みいただき、ありがとうございます