謙遜の「どうせ私なんか」は下手すると怠け者思考と同じ? | 最高の瞬間の無限を生きるための世界観への道

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みなさんこんばんは


最近車の運転が下手なことを指摘されてしまい、少々焦っている、緒川賢治です


自転車中心の生活になって約5年、足腰も鍛えられるし節約にもなるし、さらにエコにもなると思って、満足していましたが、運転が下手になることまで考えていなかったです、とほほ


どうせ、たまにしか車に乗らないから、仕方ないか、で片付けたいところですが、運転が下手というのは自分的に嫌なので、練習したいと思います




さて、本日のお話ですが、劣等感や諦めの言葉「どうせ私なんか」についてです


自己啓発系のお話では、言ってはいけないネガティブな言葉として取り上げられていますね


自信の無さの表れだとか、卑屈な気持ちの表れだとか、する前から諦める言葉だとか、自分を制限する言葉だとか、いろいろ言われてますね


絶対に言うのを止めましょう、と


逆に、自信がある場合に、謙遜で「どうせ私なんか」と言いながら、バリバリこなしたり、自信が無い振りをして「どうせ私なんか」と言いながら、ビシッと決めたり、こういう人もいますよね


まあ、口で「どうせ私なんか」と言いながらも余裕で人並み以上に出来る人は問題無いんですが、本気で「どうせ私なんか」と思って、取り掛からない、全力を出さない、本気でやらない等など、はちょっとまずいと思います


というか、もったいないですね


せっかく何かをする機会が目の前にある時に、避けるような言動をして、機会を失うことになる


もちろん、別に今しなくてもどうでも良いと思って、適当に「どうせ私なんか」と言って、実はいつでも出来る場合とか、してもしなくても自分に何の関係も無く、できればそんなことに無駄な時間や労力を使いたくないから「どうせ私なんか」と言って逃げている場合は、何の問題もありませんけどね


問題なのは、それをすることで自分自身にプラスになったり、それをする必要があったり、もしくは、高い目標を掲げてそれに向かっていく必要がある場合に、「どうせ私なんか」、と最初から思っていて、最初から諦めていたり、本気で取り組まなかったり、出来ない場合の言い訳を最初から作ってしまっている場合です


その場合の方向性は、「自分には出来ない」「自分がしても失敗する」「自分がしても上手くいかない」「自分がしても意味が無い」が最初からあるので、中途半端かそれ以下の結果に終わるか、何もしないまま終わってしまいます


ある意味逃げの精神になりますが、もしもそれ以外のことで、何か同じくらいのレベルのことですることが他にもあるなら、何するかの違いで、全く問題ではありません



これはよくある話ですが、何かに優れていたり、良い暮らしをしていたりする人を見て、羨ましいと思ったとします


その人が「君も頑張れば出来るんだよ、一緒に頑張ろうよ」と言った場合に、「どうせ私なんか才能も無いし、平凡な人間だから、出来っこないよ」と思ってしまうとします


羨ましいな~、いいな~、と思いながらも、自分はそうなろうとしない、いわゆる拒絶の状態ですが、これは、そうなりたい願望があるのに、そうなるために何かをする邪魔をする心が働いています


ある意味見えない壁のでかさを無意識に感じて怖気づいている状態とも言えますが、ここで一番重要なのは、行動を起こさないための言い訳に、「どうせ自分なんか」を使ってることです


「自分は才能も能力も無いから、あなたみたいになれませんよ」と決めてしまっていることに問題がありますね


そんなのやってみなければ分かりません


分かりやすい例で言うと、ムキムキマッチョな人が、ガリガリで悩んでいる人に「君も頑張ってトレーニングしたら、筋肉ムキムキになれるよ」と言った時に、ガリガリな人が「どうせ私なんか、運動苦手だし、何をやっても続かないし、生まれつき体力が無いから無理です」と言ったとします


どこもおかしくない会話のようにも見えますが、よく考えてみるとおかしいです


人間の体は、病気でもない限り、トレーニングすれば筋肉がつくようになっているんですから


運動が苦手でも、ウエイトトレーニングは出来ますし、ペースにこだわらなければ、走って足を鍛えることが出来ます


腕立て伏せも、最初は10回も出来なくても、鍛えることで回数を増やしていくことが出来るんです


このガリガリな人のトレーニング出来ない理由の中で、一番もっともらしく納得いく部分は、「何をやっても続かないし」です


これは、「私は何をやっても続かないので、トレーニングを始めたとしてもすぐにやめてしまうので、出来ませんよ」という意思の表れなので、反論の余地がありません

ある意味、はっきりとした拒絶としても考えられます



私が出来ない、なれない、取り組めない、『言い訳』として、「どうせ私なんか」という、自分を卑下した言葉を持ち出して、何もしない理由とするんですね


もしも、何に対してもその思考のままで、一生を過ごしたとします


そして、挑戦という言葉と無縁な暮らしをしていったとします


ただ、親から受け継いだ遺伝子の性質の元に、環境から与えられる物事の中から、自分が苦労せずに出来ることのみを選択し、惰性に生きる道です


その場合、行き着く先は、どうなっているでしょうか


それは、「努力によって成果を出している人々を、羨望の眼差しで眺める自分自身」です



実は、これと同じような状態があります


面倒くさいとか、のんびりしたいとか、きついのは嫌だと思いながら、頑張ることを避けて長い年月を過ごした状態です


いわゆる、「怠け者」です


人間が物事を達成したり、成長したりする裏側には、地道な努力や必死な努力があります


それを避けるという意味では、怖気づいて「どうせ私なんか」という言い訳の元に何もしない人も、面倒くさがりの「怠け者」も同じような結果が待っているのです


もしかすると、「どうせ私なんか」という思考の裏には、困難なことに立ち向かって道を切り開くのが面倒だったりキツそうだという怠け者の思考が入っている場合もあるかもしれませんね



世の中にたくさんいる成功者の人々の中にも、元々は出来が悪かったり、人並み以下だった人がゴロゴロいます


彼らは、自分の信念やヤル気や達成への思いを元に、挫けそうになりながらも必死でこらえて頑張って、輝かしい今があります



世の中における人生の分かれ道の基本は、行動するか行動しないか、です



さあ、あなたはどちらを選びますか?


「言い訳」と「怠け者思考」の道ですか?


それとも、「挑戦」と「経験」の道ですか?



卑下は自分の可能性を極端に低くするだけです


もしも、本当に出来が悪い自分自身ならば、それを努力で克服しましょう


どんなことでも、努力によって人並み以上のレベルを目指せます



長文お読みいただき、ありがとうございます