最高の瞬間の無限を生きるための世界観への道

最高の瞬間の無限を生きるための世界観への道

法衣を脱いだ真言密教・仏教徒が説く、精神修養にて日々を最高の自分で過ごす為のブログです
変化と向上のための実践を徹底追求しています
魂の成長を求め、心を浄化し、混沌の世で最高を生きましょう

新年明けましておめでとうございます。

2026年、新たなる一年の幕開け。

全てが一新されますが、これまでの歴史の積み重ね、無数の軌道修正、広がる可能性、あらゆる変幻自在な御縁の中、いかなる世界が繰り広げられるのか、楽しんでまいりましょう。

昨年は、皆様、大変お世話になりました。
本年もどうぞ宜しくお願い致します。

時代を観る眼、世界を観る眼、人を感じる心、自らを導く魂、常に全力全開であるがままに過ごす、生きる、即ち住すことに身を任せ、日々精進したいと思います。

本年は、ありとあらゆる祈願、供養を始めとして、車祓い、各種瞑想、教学講習等にも力を入れていきたい所存でございます。

なぜ、苦しみが無くなるのか、救われるのか、その本質は、心にあり。
悩むとは何か。
なぜ現状が好転、暗転するのか。
その秘密、密教で体現するとともに、皆様にも共有させて頂きたいと思います。

2025年に引き続き激動の2026年、共に精進して、笑顔で生きましょう。

全てに感謝です。

合掌

皆様、こんにちは、緒川賢治です。

本日は、ちょっと密教の修法についてのお話をしたいと思います。

道場観というのが修法の次第にありまして、それがまた難しい。
そこで、実際にそういうのに特化した書物があるのかと探してみると、やはりあるんですよね。

しかし、あまり買う気は起きません。

挿絵見たら、あ、こんな感じか(ラン字の他の観念の図とか、大まかな仏界観想みたいな図とか)、という感じだったので、まあここは、個人個人の感覚で良いのではないかと。

しかし、チベットでは完全に観想のイメージが決まっているみたいなので、それも気になりますが。

道場観につきましては、私は一瞬で梵字から楼閣と本尊聖衆まで変化して浄土変で仕上げというイメージでやっておりまして、今30秒くらいかかってるので、何とか極めて5秒くらいを目指しているところです(もはや個人的趣味の世界☝️😅)。
あと、古代インドのお城とか宮殿とかもイメージとして調べて、より精度を上げていく。

道場観は入我我入の基盤でもあるので、じっくり修するのが大事です、ゆっくり焦らずに。
観想の文言読みながら力んだら意味が無いので。

もっと言うならば、須弥山の世界観も基盤として必要です。

そして、それは自身でもあるという観念があって、観想で自身である本尊を中心とした荘厳道場を築き上げることができるということです。

結界、結護もまた然り。

全ては心中にある。
心中は法界に遍満する。
ならば、道場観はどういうものになるか、それはそれぞれの行者次第ということになります。

お読み頂きありがとうございます。

「こんなことで悩まなくて良いんだ〜」

これ、阿弥陀如来の智恵なんですね。

明らかにして手放し、安堵の境地、即ち極楽浄土の心を得る。

難しく考えることはない、あらゆるところに如来の智恵はあるのです。

皆さん、こんにちは。

何か1つお願い事というか、祈願というものを神仏に対してしなさいと言われたら、世界平和とか、みんなが健康で幸せに笑顔でとか、そういったものしか思い浮かびません。

国家存亡の危機になったら、それ相応のもっと入り組んだものを最大限に祈願するとは思いますが。

でもですね、もしそれを言うならば、自分自身がもっと高みに上がってないといけない。
常に、終わることのない、自己研鑽の行は、死してなお続く勢いであると同時に、先を見通すでもなくまさに今日、いやこの刹那刹那にピークを迎える、常にピークを超える勢いでないといけないんですね。

しかしながら、ダメな自分を含みつつある最高の状態、というところでしょうか。

そして、ここで自分自身を祈願するならば、まさに汚れ落とし、三業の浄化、というのが大事ということに行き着きます。

しかしながら、その汚れをも買って出る、そこに無住処涅槃というものが見えてきます。

要は、これをしたらこういう結果が出る、というものではなく、長い目で行い、行者も受者も、努力による好転、その種々微妙な力というのもを、しっかりと受け止めることから全ては始まります。

いつもお読み頂きありがとうございます。

皆さんこんにちは、20年ぶりに密教の修法に取り組んでますが、時間の捻出に苦労している、緒川賢治です。


現在、会社員しながら行者をしておりますが、なかなかいろんな面で難しいですね。


高野山派から醍醐派になり、まずは四度加行の次第を叩き込んでおります。


如意輪観音法をしておりますが、とりあえず丸暗記してひたすら瑜伽の観行に励んでます。


そして、今回気づいたこと、というか、暗黙の了解的に次第プラス自身の観念でそのまま行っていた修法、それでいいのか、と思ったことについてですが。


言説の量・世俗諦、正理知の量・勝義諦、行をするにあたって、この辺の認識は必要だなと改めて思います。


言葉そのものは記号と音声であり、全ては戯論となります。行動もしかり、この人間としての五体と感覚器官の能力内での業による戯論であり、想念も思考が入ると戯論となります。
ならば、人間の脳で考えることや動くことや思うことは、その域を出ません。
作法というのは、世俗諦の方便であり、観念もそうでありますが、そこに静寂なる無分別の照見で自然体になるならば、そこには定への移行があるのでしょう。

昔は、ただひたすら、行は瞑想だ三摩地だ瑜伽だと入我我入して法界に遍満するという観念というか思い込みで修法や護摩をしておりまして、もちろん次第そのままの観想の文言の言葉通りのままで、ただ漠然とパワーが充満したような感覚で、おそらく思い込みの中、グッと祈念などをしておりましたが、数年前に空性と縁起を研究してたからか、今はとにかくただひたすら静かに観ずる、ということに専念しております。



ひたすらあるがままを追求して、果たしてどんな答えになるのか、楽しみです。


いつもお読み頂き、ありがとうございます。