これ、阿弥陀如来の智恵なんですね。
明らかにして手放し、安堵の境地、即ち極楽浄土の心を得る。
難しく考えることはない、あらゆるところに如来の智恵はあるのです。
皆さんこんにちは、20年ぶりに密教の修法に取り組んでますが、時間の捻出に苦労している、緒川賢治です。
現在、会社員しながら行者をしておりますが、なかなかいろんな面で難しいですね。
高野山派から醍醐派になり、まずは四度加行の次第を叩き込んでおります。
如意輪観音法をしておりますが、とりあえず丸暗記してひたすら瑜伽の観行に励んでます。
そして、今回気づいたこと、というか、暗黙の了解的に次第プラス自身の観念でそのまま行っていた修法、それでいいのか、と思ったことについてですが。
言説の量・世俗諦、正理知の量・勝義諦、行をするにあたって、この辺の認識は必要だなと改めて思います。
昔は、ただひたすら、行は瞑想だ三摩地だ瑜伽だと入我我入して法界に遍満するという観念というか思い込みで修法や護摩をしておりまして、もちろん次第そのままの観想の文言の言葉通りのままで、ただ漠然とパワーが充満したような感覚で、おそらく思い込みの中、グッと祈念などをしておりましたが、数年前に空性と縁起を研究してたからか、今はとにかくただひたすら静かに観ずる、ということに専念しております。
ひたすらあるがままを追求して、果たしてどんな答えになるのか、楽しみです。
いつもお読み頂き、ありがとうございます。
皆さん、こんにちは
今週は、こちらは雨模様、恵みと潤いの1週間という感じでしょうか
六大、地・水・火・風・空・識の、水をたっぷり味わえる梅雨時期、と考えると、またちょっと違った気分で過ごせますね
さて、本日は、実践というものについて考えてみたいと思います
私達は、一応ここに来られている皆様も、いろいろと勉強されているという前提でのお話と致しますが、蓄えた知識も実践されないと、良く言えば宝の持ち腐れとなります
厳しく言うと、実践無き知識は机上の空論
さらに厳しく言うならば、知識は実践しないと意味が無い
もっと言うならば、実践の無い知識自体が実証レベルにすらならない
と、なります
そこで思います
私自身、仏道や密教、スピリチュアルなど、本を読んだり人から聞いたりして学んでおりますが、それを実際に日々の暮らしの中で実践できているのか
答えは、イエスでありノーである
頭の中にあり、影響を受けているので、それなりには実践的な感じにはうっすらとやっているかもしれません
しかし、何かあった時、人から聞かれて答える時、正しい考え方や行動が必要な時、感情のコントロールが必要な時などはもちろん、日々の生き方や何気ない行動などでしっかりと自分自身の腑に落ちた状態で身についた習慣の如く、実践によって学んでいることが活かされているかというと、自信を持って断言できません
もちろん、しっかりと実践されていらっしゃる方々は多いでしょう
しかし、私自身で言うと、まだまだ全然出来てないな、と思うのです
それなりにいろいろ試したりして確信を持ったりとかはしておりますが、日々を振り返ってみると、意外と出来てないなぁと、思うのです
凡夫であり人間である私達、日頃から実践第一にできているか、時には我が身を振り返ってみると、己を知る、ということで新たな目標として改めて実践を意識できるのではないかと思います
お読み頂き、ありがとうございます
来年は、星供をやらせて頂きます。
しかし、密教への絶対的な確信を持てぬまま、精神世界にのめり込み、またその流れで逆に密教への確信を深めることになろうとは。
空白の20年、それは必要不可欠なものであったと、今は思います。
重々帝網なるもの、それはどこにいようとも、永遠に繋がる使命や魂の本質はいずれ明らかになることを教えて下さいます。