最高の瞬間の無限を生きるための世界観への道

最高の瞬間の無限を生きるための世界観への道

法衣を脱いだ真言密教・仏教徒が説く、精神修養にて日々を最高の自分で過ごす為のブログです
変化と向上のための実践を徹底追求しています
魂の成長を求め、心を浄化し、混沌の世で最高を生きましょう

「こんなことで悩まなくて良いんだ〜」

これ、阿弥陀如来の智恵なんですね。

明らかにして手放し、安堵の境地、即ち極楽浄土の心を得る。

難しく考えることはない、あらゆるところに如来の智恵はあるのです。

皆さん、こんにちは。

何か1つお願い事というか、祈願というものを神仏に対してしなさいと言われたら、世界平和とか、みんなが健康で幸せに笑顔でとか、そういったものしか思い浮かびません。

国家存亡の危機になったら、それ相応のもっと入り組んだものを最大限に祈願するとは思いますが。

でもですね、もしそれを言うならば、自分自身がもっと高みに上がってないといけない。
常に、終わることのない、自己研鑽の行は、死してなお続く勢いであると同時に、先を見通すでもなくまさに今日、いやこの刹那刹那にピークを迎える、常にピークを超える勢いでないといけないんですね。

しかしながら、ダメな自分を含みつつある最高の状態、というところでしょうか。

そして、ここで自分自身を祈願するならば、まさに汚れ落とし、三業の浄化、というのが大事ということに行き着きます。

しかしながら、その汚れをも買って出る、そこに無住処涅槃というものが見えてきます。

要は、これをしたらこういう結果が出る、というものではなく、長い目で行い、行者も受者も、努力による好転、その種々微妙な力というのもを、しっかりと受け止めることから全ては始まります。

いつもお読み頂きありがとうございます。

皆さんこんにちは、20年ぶりに密教の修法に取り組んでますが、時間の捻出に苦労している、緒川賢治です。


現在、会社員しながら行者をしておりますが、なかなかいろんな面で難しいですね。


高野山派から醍醐派になり、まずは四度加行の次第を叩き込んでおります。


如意輪観音法をしておりますが、とりあえず丸暗記してひたすら瑜伽の観行に励んでます。


そして、今回気づいたこと、というか、暗黙の了解的に次第プラス自身の観念でそのまま行っていた修法、それでいいのか、と思ったことについてですが。


言説の量・世俗諦、正理知の量・勝義諦、行をするにあたって、この辺の認識は必要だなと改めて思います。


言葉そのものは記号と音声であり、全ては戯論となります。行動もしかり、この人間としての五体と感覚器官の能力内での業による戯論であり、想念も思考が入ると戯論となります。
ならば、人間の脳で考えることや動くことや思うことは、その域を出ません。
作法というのは、世俗諦の方便であり、観念もそうでありますが、そこに静寂なる無分別の照見で自然体になるならば、そこには定への移行があるのでしょう。

昔は、ただひたすら、行は瞑想だ三摩地だ瑜伽だと入我我入して法界に遍満するという観念というか思い込みで修法や護摩をしておりまして、もちろん次第そのままの観想の文言の言葉通りのままで、ただ漠然とパワーが充満したような感覚で、おそらく思い込みの中、グッと祈念などをしておりましたが、数年前に空性と縁起を研究してたからか、今はとにかくただひたすら静かに観ずる、ということに専念しております。



ひたすらあるがままを追求して、果たしてどんな答えになるのか、楽しみです。


いつもお読み頂き、ありがとうございます。

皆さん、こんにちは



今週は、こちらは雨模様、恵みと潤いの1週間という感じでしょうか


六大、地・水・火・風・空・識の、水をたっぷり味わえる梅雨時期、と考えると、またちょっと違った気分で過ごせますね


さて、本日は、実践というものについて考えてみたいと思います


私達は、一応ここに来られている皆様も、いろいろと勉強されているという前提でのお話と致しますが、蓄えた知識も実践されないと、良く言えば宝の持ち腐れとなります


厳しく言うと、実践無き知識は机上の空論

さらに厳しく言うならば、知識は実践しないと意味が無い

もっと言うならば、実践の無い知識自体が実証レベルにすらならない

と、なります


そこで思います


私自身、仏道や密教、スピリチュアルなど、本を読んだり人から聞いたりして学んでおりますが、それを実際に日々の暮らしの中で実践できているのか


答えは、イエスでありノーである


頭の中にあり、影響を受けているので、それなりには実践的な感じにはうっすらとやっているかもしれません


しかし、何かあった時、人から聞かれて答える時、正しい考え方や行動が必要な時、感情のコントロールが必要な時などはもちろん、日々の生き方や何気ない行動などでしっかりと自分自身の腑に落ちた状態で身についた習慣の如く、実践によって学んでいることが活かされているかというと、自信を持って断言できません


もちろん、しっかりと実践されていらっしゃる方々は多いでしょう


しかし、私自身で言うと、まだまだ全然出来てないな、と思うのです

それなりにいろいろ試したりして確信を持ったりとかはしておりますが、日々を振り返ってみると、意外と出来てないなぁと、思うのです


凡夫であり人間である私達、日頃から実践第一にできているか、時には我が身を振り返ってみると、己を知る、ということで新たな目標として改めて実践を意識できるのではないかと思います


お読み頂き、ありがとうございます


皆さんこんばんは、緒川賢治です

昨年末に、新たに得度を受けさせて頂き、密教の世界に戻ることになりましたが、現実的には在家であり、日々働きながらの合間としては、あまり時間も無く、慌ただしい日々だけが過ぎ去りゆく中、ふと本棚の整理をしようと思い立ち、これまでの20年の間に残った密教の次第をふと手に取りました。

行法集とか、いろんな次第や資料、様々な事情で失ったものは多く、また買わないといけないな、というのは思っていましたが、何気に手に取って、パラパラとめくった星供次第。
内容にさーっと目を通しただけですが、徐々にうるっときまして、何とも言えない気持ちになりました。

ごめんなさいという感情なのか、20年という月日への後悔なのか分かりませんが、はたまたついに時が来た、という感じなのかもしれませんが、またこれからしっかりと一から身に付けないといけないな、という1つの覚悟のようなものが芽生えました。

来年は、星供をやらせて頂きます。


そして、それまでには、あらゆる修法をマスターしたいと思います。

人生は、御縁にて創られ、それに抗いつつも、立ち戻る。

しかし、密教への絶対的な確信を持てぬまま、精神世界にのめり込み、またその流れで逆に密教への確信を深めることになろうとは。



空白の20年、それは必要不可欠なものであったと、今は思います。


重々帝網なるもの、それはどこにいようとも、永遠に繋がる使命や魂の本質はいずれ明らかになることを教えて下さいます。