20081109 日本経済新聞 朝刊

 お産のときの事故で、生まれてきた子供が障害を抱えてしまった。こんな場合に家族や子供を助ける補償制度が二〇〇九年一月から始まる。子供を産むほぼすべての人にかかわる制度となるが、補償対象が限られるなど課題も多い。より多くの人が安心できる制度として充実させていくためにも、その内容を知っておこう。
 神奈川県で暮らす坂口成美ちゃん(11)は生まれる前、母親の胎内で順調に育っていた。しかし予定日を過ぎた後の分娩(ぶんべん)時の事故で、重度の脳性まひになった。自分ではからだを動かすことができず、母親の朋子さんが付きっ切りで介護している。
 食事は鼻から胃に通したチューブで流動食を流し込む。少しずつしか消化できないので、一日六回に分け、合計七―八時間もかかる。たんの吸引や寝返りを打たせることも必要。朋子さんはゆっくり寝ることもままならない。養護学校や病院への送り迎えも一仕事だ。
 経済的負担も重い。車いすの購入など公的補助が出るものもあるが、食事の際に使うチューブなどは全額自己負担。家庭での介護・看護費用に月八万―十万円かかる。朋子さんは「娘が生まれたときに補償制度があれば対象になったはず。今後はこの仕組みで助かる人はいるだろう」と話す。
掛け金は3万円
 来年から始まる制度の正式名称は「産科医療補償制度」(図A参照)。通常の妊娠・出産だったにもかかわらず、生まれた子供が重度の脳性まひになったとき、その子の看護・介護のために一時金として六百万円、分割金として年百二十万円(月十万円)が二十年にわたって支給される。
 未熟児として生まれた場合や、検査でわかる遺伝子異常など先天的な原因によるものは対象外。原則として妊娠三十三週以上で生まれた場合で、重度の障害があることなどが補償の条件となる。ただし妊娠二十八週以上ならば個別審査で該当することもある(表B参照)。
 この制度を運営するのは公的団体である日本医療機能評価機構(東京・千代田)。同機構と損害保険会社六社でつくる保険に、全国のお産を扱う医療機関が加入し、各医療機関が掛け金を払う。それが補償金の財源となる。一出産当たりの掛け金は三万円。多くの医療機関は経営が厳しいため、来年から掛け金の三万円分程度、出産費を値上げする見通しだ(図A)。
 そのままではお産をする人の負担増になってしまうので、政府は健康保険など公的医療保険からお産をした人に支払う出産育児一時金を来年から三万円引き上げ、三十八万円とする。
 お産を扱う医療機関が新制度に加入するかは自由だが、〇八年十一月初めの時点ですでに九五%の医療機関が参加している。お産をする医療機関が制度に加入しているかどうかは、院内に加入証(図C参照)が提示されているかでわかるほか、直接問い合わせてみるのが手っ取り早い。日本医療機能評価機構のホームページでも確認できる。
 制度に参加した医療機関でお産する妊婦さんは、医療機関から渡される「産科医療補償制度登録証」に氏名や住所を記入し、その控えを手元に残す。万が一、子供が脳性まひになったとしても障害状態を見極めるため、原則満一歳以降でないと補償金の申請はできない。登録証は大切に保管しておこう。
原因を分析・公表
 新制度は、これまでなら補償がなかった人も支援できるという点で評価する声が多いが、課題も山積だ。その一つが補償条件。愛育病院(東京・港)新生児科部長の加部一彦医師は「どうして原則妊娠三十三週で区切るのか。わずかな日数の違いで対象外になる場合など不公平感がぬぐえない」という。
 もう一つは、医師と妊産婦・家族側の紛争防止、医療事故の再発防止に役立つかどうかだ。新制度は事故が起こったときに補償金を払うだけでなく、医師らでつくる委員会が情報を集め、原因を分析し、その結果を公表することになっている。
 産婦人科の医師不足は深刻だが、その背景の一つには原因が明確でない出産時の事故について訴訟が起こり、その争いに医師が疲れ果てるという点が指摘されている。妊産婦側も長く争っても勝てるとは限らない。「(新制度で)第三者の専門家が原因を究明してくれるのであれば、妊産婦もある程度納得してくれて、その結果、双方に無益な訴訟も減るのではないか」(日本医師会の木下勝之常任理事)と期待されているのだ。
 冒頭の坂口さんも病院側の説明に納得できず「なにがいけなかったのかを知りたい」と訴訟を起こした。病院側は原因不明として最後まで過失を認めなかったが、陣痛促進剤の過剰投与や不十分な分娩監視があったとする鑑定書が提出された後、和解を申し入れてきた。「自分が悪かったのではなく、病院がすべきことをきちんとしていなかったのだと、前向きな気持ちになれた」ので和解に応じたという。
 新制度によって本当に訴訟が減るかどうかは医師、医療事故被害者の間でも疑問視する向きがある。これとは別に「紛争解決のための努力は常に必要」(北里大学医学部産婦人科の海野信也教授)だ。とはいえ、せっかく始まるだけに、不幸な事故を減らし、医療の質を上げることにつながるか注目される。
 産科医療補償制度は不思議な制度だ。産婦人科医の団体の意見を入れて政府・与党主導でつくったのだが、法律に基づく公的制度ではない。あくまで民間の保険制度という位置づけ。ところが、その財源は結局、公的医療保険制度から出る出産育児一時金。医療機関はこの制度に加入しているかどうか、都道府県に報告する義務もある。
 民間制度とした理由は脳性まひ児を対象に急いでつくりたかったため。法案にすると国会審議などで時間がかかり、特定の人だけを救済する理屈も立ちにくい。産科医療の疲弊の原因としては、医師の側に責任があるのかどうかわかりにくい脳性まひ児の出産について訴訟・紛争が増えていることも挙げられている。
 早く補償制度をつくり、このような訴訟を減らしたいとの狙いがあった。このため、紛争にはなりにくい先天性や未熟児の脳性まひは補償対象から外れた。
 だが原因はどうあれ、脳性まひ児が生まれた場合の家族の負担は重い。どこで線を引くべきかは難しい。脳性まひだけ、産科だけが対象でよいのかという問題もある。
 また、脳性まひ児についての調査データが乏しい中で、掛け金・補償金の水準や、対象となる子供が亡くなっても補償金が二十年間は支給されつづけるという仕組みが妥当かどうかの検証も必要。よりよい制度に向けて見直しは欠かせない。(編集委員 山口聡)


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