20080811 日本経済新聞 朝刊

 祭りは終わった、といわれても豊年満作にほど遠い――。政府は八月の月例経済報告で、景気がすでに後退局面にある公算が大きいことを示唆した。正式の判定は今後の有識者の会議によるが、多くの専門家が指摘するピークは昨年十―十二月期。仮に十二月とすれば拡大期間は七十一カ月。金融不安とデフレの中で上昇してきた景気は過去最長の「いざなぎ」を大きくしのいで下り坂に入った。
 二〇〇一年の九・一一テロの後から、急激に回復に転じた米国の景気は昨年末で山を付けたという見方もあり、もしそうなら日米両国がほとんど同時に拡張期をたどったことになる。
 ただし、景気の強さとなると対照的だ。〇二年から〇七年の六年間の実質成長率で見ると年平均二・六%の米国に対して日本は一・八%と意外に差は小さいが、名目で見れば実に五・三%対〇・六%。格差は鮮明である。平均の名目成長率が一%を大きく下回っていては、いくら記録更新の拡大期といわれても浮揚感がない。ごく当然である。
 「山高ければ谷深し」。株式や商品の相場の格言が景気にも転用されて警句になっている。大型、長期の景気ほどいったん調整に入ると厳しい。バブル景気を思い出すまでもなくうなずけるフシはある。では今回のように、「山高ければ」というより期間だけが長い「山長ければ」なら、その後はどうなるか。
 政府や産業界には「谷短し」という空気が流れている。日本経済沈滞の元凶と言われた雇用、負債、設備の三つの過剰が一掃され、改めてストック調整に追い込まれる心配はない。財務面をはじめとした企業の体質が筋肉質になっているので、耐久力がありズルズル落ち込む恐れはない。根拠はこんなところだ。「山が低かった」から「谷も浅い」。浅い谷なら短い、という短絡的連想もあろう。
 過去の景気循環から後退期を取り出すとこの期待は裏切られる。朝鮮動乱特需の反動時の四カ月を除いた十二回の循環を見ると、後退期の平均期間は十七カ月、拡大期は約倍の三十三カ月だ。このうち拡張が二年を下回る小型景気の場合の後退は一年半未満で「山短ければ谷短し」のようだ。
 拡張期が長い循環を挙げると図のようだ。上り期間に対して下りが圧倒的に短いが、五十七カ月対十七カ月といういざなぎ景気もあれば、バブル景気のように下りが三十二カ月という長い後退もある。図にはないが第二次石油危機を挟んだ景気は上り二十八カ月に対して下りは何と三十六カ月だ。当たり前のことだが、景気後退を呼んだ原因によって谷までの期間はバラバラであり予断を許さない。
 今回は住宅不況が広がっているところへ米国向けなどの輸出の減少が引き金を引き、生産調整が始まった。原油、食料をはじめとした一次産品価格の急上昇が企業の強いコスト圧力になり収益悪化を生んでいる。
 在庫が積み上がっておらず、供給力も大きな余剰を抱えていないのなら、生産調整が雇用調整に波及するまでに乗り切れるかもしれない。昨年末がピークで、後退期間は過去の平均並みとすれば、足もと時点ですでに下り坂のほぼ半分を経過している。企業にとっては実質的に〇八年度下期だけが試練のときだ。
 しかし、拡大期の成長の約六〇%が輸出に依存していたように、後退から反転する浮揚力も輸出がカギ、となると米国や北京五輪後の中国など海外の経済動向が左右する。その海外経済の展開は、原油動向や新興国経済の頑強性、米サブプライムローン問題から派生する金融、実物の両面の影響など、起こりうる可能性の範囲を把握できない、つまり「分からないことが分からない」状況だ。バレル百四十五ドルから反転した原油価格、住宅価格の下落、自動車需要の急冷、五輪後の中国景気などの不確実性要因を期待を込めて自己実現的に読むべきでない。
 それだけに内需主導を期待したいところだが、もともと過去最長の拡大期が、家計の所得増大を置き去りにしていた。それをマイナスの物価で意図せずして補てんしてきた状況が一変し、二―三%の物価上昇率に直面する。実質所得が大きく減少して消費が伸びるわけがない。この機に家計にリスクを取れ、というのは自爆の勧めに等しい。
 勤労者の三分の一が非正規という雇用形態は、七年ぶりの減益に陥る公算が大きい産業界にとっては予防的な雇用調整がしやすい環境だ。輸出比率が過半の企業ほど高収益、という上り坂の公式が逆作用したとき、下り坂での雇用調整に弾みがつかないか心配だ。
 低い山の中で個別企業が効率化しスリム化に努めたことは半面で、産業の連鎖の中で事故、天災をはじめとした不測の変動を緩和する「含み」を無くした。景気下り坂の負担を、産業界が均等に負うのではなく中小企業や非正規雇用など特定部門に、即座に集中しやすい構造にも変えた。他方、長い上り坂の間に大きなイノベーションが生まれたわけでも経営発想を革新したわけでもない。世界景気の回復が逃げ水のように後ずれすれば、せっかくの筋肉質も容易に元のぜい肉体質に変わりうる。
 日本経済に醸成された弱い環を凝視しながら、海外要因の不確実性の大きさを考えると、山が低かったから「谷は浅い」と見るのは期待過剰の幻想だ。まして浅くて短い谷に終わる保証はない。






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