20080525 日本経済新聞 朝刊

 離婚した時に厚生・共済年金を夫婦で分割できる制度が導入されて一年余り。熟年離婚が増えるのではという観測もあったが、実際の利用状況は落ち着いている。ただ「夫の年金の半分をもらえる」という誤解は依然多い。二〇〇八年四月に専業主婦などが会社員と離婚した場合に強制的に年金を分割する仕組みが始まったのを機に、制度を再確認してみよう。
 「なんとか生活できそうです」。東京都在住で、今年一月に離婚したAさん(58)はほっと胸をなでおろす。会社員の夫と三十年前に結婚したが、数年前から夫が給料を家計に入れなくなった。それでも一人になった時の経済事情が不安で離婚に踏み切れなかったが、離婚相談センターへの相談で「年金分割」という制度があることを知った。
 年金の受給権は保険料を支払った本人に属するため、法律で他人への譲渡や、差し押さえを禁止していた。だが離婚が増えるなか、男女の雇用・給与格差を背景に離婚後の夫婦の年金受給額に大きな差がある問題が表面化。〇七年四月から夫婦の合意または裁判手続きで、離婚を機に年金を分割できるようになった(表A参照)。
導入1年で9800件
 妻は夫の厚生年金をどのくらいもらえるのか。それを知るには、最寄りの社会保険事務所に婚姻期間が分かる戸籍謄本と年金手帳(基礎年金番号通知書でも可)を持っていき「年金分割のための情報提供請求書」に必要事項を記入して提出する。数日後にもらえるのが「年金分割のための情報通知書」。分割する期間と比率を記入すれば、離婚が成立する前でも具体的な金額がわかる。これは夫に内緒ですることも可能だ。
 婚姻期間三十年のAさんは月額約四万円の自らの年金(老齢基礎年金)のほかに、夫の厚生年金を五割分割した場合に月四万円強をもらえることが分かった。分割の請求期限は原則として離婚をしてから二年なので離婚を決断したAさんは早速準備に取りかかった。
 次に公正証書を作成しよう。話し合いで決めた分割比率に証明力を与えるためだ。年金分割のための情報通知書や婚姻期間を証明できる文書などを携えて公証役場に行き、公正証書をつくってもらう。手数料は一万―三万円。一連の手続きを行政書士や社会保険労務士に任せれば、さらに五万―八万円かかる。
 この公正証書と離婚が成立したことが分かる戸籍謄本、基礎年金番号を証明するものと一緒に、社会保険事務所に置いてある「標準報酬改定請求書」を社会保険事務所に提出すれば、手続きは完了だ。社会保険庁によると、〇八年三月までの一年間で分割請求は九千八百三十四件。約八割が女性からの請求という。
 年金分割は夫の保険料納付記録の名義を妻のものとするため、夫の死亡や不履行によって送金されないリスクはない。妻の利点は大きく、制度の認知度が高まってきた。ただ離婚した女性やその予備軍が細かい仕組みまで理解しているとは言い難い。離婚・家庭問題に詳しい行政書士の坂田雅彦氏は「多くの人が離婚した夫の年金額の半分をもらえると誤解している」と指摘する。そこで誤解しやすいポイントを整理してみよう。
 注意が必要なのは、まず分割の対象は厚生年金で、夫と妻がそれぞれで受け取る老齢基礎年金は対象外となること。さらに厚生年金額そのものを分割するのではなく、厚生年金保険料の納付記録を分割する点だ。
 具体的な手続きとしては、給与の近似値である標準報酬月額が改定される。例えば月給が約四十万円の夫Bさんと、同二十万円の妻Cさんの共働き夫婦。標準報酬月額を五対五で分割する場合、Bさんの標準報酬のうち十万円がCさんに分割され、夫婦の標準報酬はそれぞれ三十万円ずつになる計算だ。分割の比率を夫婦間で合意できなければ、家庭裁判所に調停を申し立てて決めることもできる(図B参照)。
 厚生労働省が試算するモデルによれば、厚生年金に四十年間加入し、平均給与が三十六万円なら月当たりの年金は老齢基礎年金六・六万円に報酬比例部分十万円を加えた十六・六万円。年金分割はこのうちの報酬比例部分を分ける。またあくまでも分割できるのは、婚姻期間に対応する部分のみだ。
 二十五歳で結婚したDさんが六十歳で離婚すると、婚姻期間は三十五年。分割対象の年金は十万円に「四十分の三十五」を乗じた八万七千五百円になる。この部分をどう分けるかを夫婦で協議する。分割割合を最大の五〇%とすると、四万三千七百五十円。モデルよりも婚姻期間が短かったり、給与が少なかったりすれば、金額は減る。算出してもらった年金額の少なさを前に離婚を思いとどまるケースも多いようだ。
専業主婦ら対象
 〇八年四月一日からは夫婦片方の請求だけで強制的に、厚生年金の納付記録を分割できる制度も始まった。専業主婦など第三号被保険者がサラリーマンなど第二号被保険者と離婚した場合に、〇八年四月以降の納付記録は夫婦の合意がなくても強制的に二分割される。経済基盤の弱い専業主婦には心強い味方となる。
 ただ気を付けたいのは、強制的に分割されるのは〇八年四月以降の第三号被保険者であった期間に限られる点だ。強制分割の制度導入以降に長く専業主婦を続けられる若い世代にとっては利用価値は高いが「熟年離婚を考えている高齢者世代にはメリットが小さい」(アンダーソン・毛利・友常法律事務所の若林弘樹弁護士)との見方もある。
 今年三月以前に結婚し、同四月以降に離婚するケースは(1)強制分割(2)合意による分割――の二つに分かれる(図C参照)。一九五五年生まれのEさんが一九八〇年四月に二十五歳で結婚し、二〇〇九年四月に離婚した場合の年金分割はどうなるか。まず〇八年四月から〇九年三月までの一年分だけを強制分割する。その上で八〇年四月以降の婚姻期間全体について夫婦の合意による割合で年金を分割する。(関口慶太)
 離婚後に年金分割の申請をしても分割された年金をすぐにもらえるわけではない。分割年金をもらうには受給権がなければならない。保険料を免除した期間を含む公的年金の最低加入年数は二十五年。二十五年に達しないと受給権を得られず、分割年金を受け取れない。
 ただ専業主婦には特例もある。一九八六年四月に専業主婦は保険料の負担無しで国民年金に強制加入させられた。これが第三号被保険者制度。それまでは国民年金への加入は任意だったため、国民年金が発足した六一年四月から八六年三月までに専業主婦だった人はこの期間をカラ期間(合算対象期間)として受給資格期間に算入できる。夫が自営業者の専業主婦はもともと国民年金に強制加入なので、カラ期間は使えない。
 年金分割は離婚後の経済基盤を支援する制度。しかし夫が先立った場合にもらえる遺族年金など、夫婦であれば受け取れたはずの年金を失うことにもなる。
 離婚して受け取る分割年金より、離婚しないで夫が亡くなり受け取る遺族厚生年金の方が受取額が多い場合もある。遺族厚生年金は夫の厚生年金(報酬比例部分)の四分の三を受け取れるが、分割年金は最大で二分の一だ。
 夫の年金が月額十万円の場合、夫が亡くなれば遺族年金七万五千円のほかにも、中高齢寡婦加算(四十歳から六十五歳まで、年額五十九万四千二百円)を受け取れるケースがある。一方、夫の加入期間四十年、婚姻期間三十年の分割年金では三万七千五百円しか受け取れない。年金面から見ても離婚の決断には慎重さが必要だ。
【図・写真】社会保険事務所の年金コーナーで離婚時の年金分割手続きや相談ができる(横浜市中区)