暑中見舞いの意味を噛み締めることについて | JOKER.松永暢史のブログ

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何だか知れないが、最近、すでに新しい時代、新しい次元、新しいモードに入っている気がする。

経験上自分は、人よりやや敏感で「早い」ので、きっとこれから多くの人がそれを感じ始めるに違いないが、いつものようにそれに気づく人はその一部なのかもしれない。

そもそも用がないのにこちらから人に連絡しない質であるが、人から見れば「付き合いが悪い」人間ということになってしまうだろう。

元々はそうでなかったが、結婚後、友人たちとの密接なやり取りは減った。

親しくした期間が長い人たちとも連絡は途絶えた。

これは、ネットの発達によって日本郵便が廃れていくことと同様のことなのか。

メールでさえも無闇に人に消息を伝えることは憚られる。

私には「寂しい」という感覚がほとんどないことを、近親者たちは驚く。

私には「退屈」を恐れる感覚はあるが、その対処にはより面白いことを思いつくことが大切ということになる。

寂しさを感じる前にヒマを感じ、すぐにオモロいことを探し求め始めてしまう。

人は人と遊ぶ。

それはその人と遊ぶことが楽しいから。

もし楽しくなくなれば、つまり飽きて仕舞えば、近所付き合いでもなければ交際は徐々に途絶する。

しかし、久しぶりで会う人は、積もる話もあるし、会って話せば愉しいことが多い。

それはお互いが長いこと会わなかった間もなんとか「無事」であったことの確認の悦びなのかもしれない。

齢重ねて、自分の「型」が定まりつつあるとき、人はそこに起こる「分別」によって、「古い」あるいは「新しい」ものを関心の範疇外にする。

自分にとって、つまらないものは「つまらない」。

「つまらない」と通過せずに「つまるもの」、つまり興味を惹きつける対象とは何か。

それはこれまで経験しなかったものとの遭遇か。それともこれまで気づかなかった自分の「内」にあったものとの「出逢い」か。

どうしても素通りする気にはなれないこと。

だとすれば、それに「出遭う」には何が必要か。

好奇心と追体験

感受と心情表現

何回もアタマに浮かんできて妙に気になる年上の旧友に連絡すると、なんと「肺炎で入院中」のメールが返った。

山の中とはいえ、クーラーなしでこの暑さでは、体力の消耗が大きいのは誰でも同じことだ。無事回復を祈る。

もう一人からは、なぜか知らぬが34歳の私と娘の写真が送られて来た。我ながら「別人」に思える。

「暑中見舞い」の意味を改めて噛み締める。