「知識」と「体験」の違いについて | JOKER.松永暢史のブログ

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言うまでもなく、「覚える」と言う能力において、我々は「機械」には及ばない。かなわない。
しかし、例えば、「火傷」ということを「熱による皮膚の損傷」と記憶することは可能だが、それが「手で熱い物に触れるとヒドい目に合う」という時の「アッチ!」の感触の印象を加味した意味であることがわかるためには「体験」が必要である。さらにはその後の処理を含めて、「これに限らず、熱いものに不用意に触れないようにすることはあらゆることに有効である」と知る。「知識」と異なり「体験」は、その印象力により、帰納結果的「判断」や演繹的「考察」を可能にする。
我々は原爆体験をすることはできない。この世には「死」同様、通常体験できないことがたくさんある。しかし、自らの「火傷」の体験から、「全身火傷」で死に至る痛々しさは容易に想像できる。それどころか「想像を絶する」と感じてしまう。
ふつう理科社会などのテストで問われることのほとんどは、「これを知っているか?」と知識を問う問題である。
それはこれを知らなければ話にならないだろうと言う用語はともかく、その道の専門家になるわけでもあるまいしそんな細かいことわざわざいちいち覚えるか、といった問題が相変わらず出され続けているのは滑稽である。なぜなら、最早必要な「知識」のほとんどはその都度の「検索」で得ることができ、必要なのはそれを他の知識と結びつけたり、「実用化」したりする能力なのであるから。
で、話はやや逸れるが、ではそれを「考察」の能力を測るためにするとなると、そこで必然的にその中心はレトリックの能力の審査に占められることになる。レトリックは体験知を誤魔化す最高の武器である。
記憶は思考力を伸ばさないが、体験は思考力を高める。
現行テストの(特に選択肢テスト)の最大の欠点は、それが体験知を測ることができないところである。
しかも、「このことを知っているか?」ではなく、「このことについてどう考えるか?」と記述回答を求められれば、多くの者は「沈黙」を選択する。
我が国の学校教育通りに、あるいは受験対策のために、覚えることばかりが学習と思い込んで、自分の考えがないことが習慣になった者に、大学で教育を与えることは難しい。というわけで、各大学、劣化した文化事情の下、少しでも「マトモ」な生徒を拾おうと、推薦入試やAO入試が盛んになる。小論文と面接でその思考力を測ろうとする。と思ったが、そんなことやっても大学進学希望者の大半がしょうがないレベルなので、また私学の半数が定員割れしてその状況は少子化の加速でみるみる悪化しているので、それならいっそもうなりふり構わず「青田買い」とばかりに、東洋大など年内に「前倒し一般入試」をするという大学も現れていて、その「脛」(すね)が丸見えになっている。
言うまでもなく、学問の世界では知識を得ることがその主体になるが、そこでその知識をもとに、「実験」や「考察」を推し進めると、それは「ああそう言うことだったのか?」と言う興奮を伴った「体験」になる。それは人に、ただ覚えるということの学習にはない、聡明さを与える。当たり前のことであるが、学問をする際に最初から最後まで欠かせないのはこの自分で考えようとする姿勢である。なぜかと問い続ける精神である。
AIは自分で体験しない。自分で感じない。自分で考えない。
すると、おそらくはこの先、あたかも駅の切符切りやバスの車掌がいなくなったように、レジ打ちと支払いが自動化するように、あるいは車や飛行機が自動運転になるかのように、あらゆる機械ができる仕事は次々とそれに取って代わられる世がいずれ来るとすれば、そこで生き残らせるためには、いたずらな知識暗記よりも、機械がしない「体験すること」、「感じること」、「考えること」、あるいは「表現すること」といった力を身につけさせることを優先すべきであるということになる。
お盆で旅に出かけて、自然の中で良い体験をたくさんして欲しい。
おじいちゃんおばあちゃんに会えば、昔の自然体験の話をしてもらって欲しい。
老人の中には通常できない体験をしている人もある。
それを語ってもらう機会を作ること、それも大切である。
登山などで、見事な景色を見たり素晴らしい体験をしたら、ただそれをスマホに収めて満足するのではなく、その印象を文章や絵に描いて表現して欲しい。
自ら考える力につながる有意義な体験をして欲しい。
同時に、「気持ちがいい」とはどう言うことなのかを改めて味わって欲しい。