教育とは、その対象となる子どもたちが将来幸せになるように行うものである。
だがそれには、近未来社会へのヴィジョンと現状社会の省察が欠かせない。
教育には「哲学」が必要である。
通常、大人が自分が正しいと思ったことを子どもに伝える場合、そこには予め大人への「服従」があることが前提になる。そこには、「信頼」や「敬愛」もあるが、その最低部を流れるのは服従になる。つまり子どもに言うことを聞かせることが「教育」になる。
すると、言うことを聞かない子どもは「教育」を受けることができない、つまり「幸せ」にならないことになるが、そんなことがあるはずがない。いや、あってはならない。
もし人に「学び」というものがあるとしたら、それは誰かに教わった知識を記憶することではなく、なんらかの体験によるものである場合がその大半なのではないだろうか。
大人が上手に道具を使うのを見て子どももやりたくなる。たとえば薪割り。子どもは見様見真似で薪割りを体験し、「それ」を学ぶ。
「学び」とは体験そのものである。
その「体験」が脳内でシナプス化する。
言うまでもなくこうしたことは、「服従」の場において起こることではなく、もっぱら「勝手(=自由)」の場において起こることである。
「服従」の習慣がつけば、忍耐の習慣もつく。我慢して働くことがしやすくなる。それは役に立つ、有能な「人材」である。現状社会適応能力の高い人間になる。しかしここでは同時に多く、「勝手(=自由)」な行動が制限され、その結果、着想、創造といった未来的な能力が弱まることになる。それは「幸福」なことなのか。
自分が何をしたいか思いつけない。自分が何がしたいかわからない。これは「幸福」なことだろうか。
いやそうは思われない。自分がやりたいことを自分で考えて実践するのでなければ人生は面白くない。意味がない。
すると、必要以上に服従習慣を与える教育を受けさせて、未来社会に必要なアイディアを出す能力が発達する機会を奪う教育を、子どもの集団全体に向けて行うのはナンセンスであることになる。
わっからないかなあ。近未来社会の中心となるのは子どもたちであり、その子どもたちが社会発展や問題解決の能力に優れるように教育することを後回しにすることが本当に愚かしいことであることを。
次世代が既世代より優れた存在になるように教育しようとするのでなければ、「教育」の意味は木っ端微塵も無くなってしまう。
「服従」なぞ、組織に入ってから本格的に学ばせれば良いのである。組織に入るはるか前から「服従」を叩き込もうとすることは間違っている。それに「服従」は教えやすい。それに対して良いことを思いつく力を培うことは難しい。